秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

パブロフの犬

パブロフの犬」という言葉が中学のとき、クラスの中で流行ったことがある。

 

体験的で強制的な学習によって、行動が習慣化、パターン化されるという条件反射を解明した、ソビエト生理学者イワン・パブロフの実験のことだ。

ぼくらは、習慣化され無意識に反応してしまう行動に愚かさを感じたのだろう。何かで互いを揶揄するときに、「あ、パブロフの犬だ!」と笑いにして使っていた。得たばかりの知識を子どもはすぐに変容して使いたがる。

時として、子どもの悪ふざけは人を傷つける。よいことではないが、ぼくらが実験=教育によって習慣化されてしまう生き物の条件反射を愚かさの一種と理解したことは決して間違ってはいない。

フランスの哲学者、ジャン=ジャック・ルソーは、その教育論の中で、「教育とは本来不遜なものだ」と語っている。すでに制度化され、社会通念とされている道徳や規範、それに基づく法に従わせるために、大人の都合、社会制度を維持するために、子どもを適合させる。それにそぐわないものは、場合によって本人の意志とは無関係に矯正する。それを正しいことと考えている。

社会制度や規範は、その時々の政治権力、宗教を背景として、とりあえず、便宜的に合意されたもの、人為的につくられたものに過ぎない。何かあれば、その基軸は容易に変容する。

 

だとすれば、教育そのものになにひとつ正当性はない。ルソーは、それを不遜だと言ったのだ。

それを前提としなくては、教育は教育でなく、小さな親切、大きなお世話。大人たちの手前勝手なご都合主義、場合によっては虐待に陥ってしまう。それは自主性を育む教育ではない。ルソーはそれを強く諫めた。

自主性とは、自ら考え、試行錯誤し、失敗があっても学び、自ら普遍的な価値、回答に辿りつくことだ。それによって、自己決定能力も主体的な思考と行動を身に付けることもできる。自尊感情はその過程で自然と育まれていく。

かつて、この国の政治家や中央官僚は、すべてとは言わないが、大きな力を持つ者ほど、そういう教育を受けた人間がその職にあった。


単に高学歴であるというだけでなく、頭脳明晰で、主体的な思考と行動ができなければ、トップの政治家にも官僚にもなれなかった時代だったのだ。

もちろん、利権を貪る輩は昔からいたし、それに群がる人間もいた。しかし、少なくとも、いまほど愚かではなかった。

この国のいまの政権、それに迎合する中央官僚や財界、現行の政治を支持する国民の多くは、詳しくは述べないが、時代的に、少年期や思春期すでに、社会に適合するための生き方しか習慣化されていない。反権力や反社会はみっともない事、恥ずかしい事、無力なことと教えられ、現実にそうした前例しか体験もしていない。

 

一度、善悪や正誤を越えて、現状維持を習慣化された脳は、その判断基準は持てないし、持とうとはしない。言われるがまま、公文書を改ざんし、政権を擁護するための屁理屈や言い逃れ、虚偽発言を平然とできてしまう。

それを善悪や正誤の基準で強く批判しても、彼らにはまったく響かない。パブロフの犬状態が長く続いているから当然のことだ。


心理学で人間の残虐性の実験がある。

被験者二人に相応の料金を払い、ひとりを電気ショックの被験者とさせ、ひとりに電気ショックを与える役割りをさせる。

電気のダイヤルを回すひとりに、この実験が社会的に大きな成果を生むという正義、正しさを教え込む。すると、この行為が正しいことだと教えられた加害者役のひとりは、ためらうことなく電圧を上げることができてしまうのだ。善悪の基準がないから、罪悪感もない。当然の自分の役割、使命として平然と電気ショックを与え続けることができる。

格差も貧困も自殺増も コロナ感染拡大も それによる倒産増加も 彼らには関係ない。心底、民のために泣くことも 無力な自分を恥じることも あらん限りの努力を不眠不休でやる心意気もない。


ぼくらは、いまそうした社会、国に生きているのだ。