ネキア
高校の演劇部員だった頃、リアリズム演劇を知らなくてはと、当時、演劇人の必読書といわれていた、スラ二フラフスキー著・千田是也訳『俳優修業』を意味もわらかず読んでいた。
以前、書いたことがあるが、当時は、民芸、文学座、俳優座、青年座といった大手劇団がしのぎを削っていた時代。四季、雲、昴といった劇団も生まれ、私はそこで名優芥川比呂志や滝沢修、杉村春子といった人たちの芝居をじかに観ることができた。
私の出発は、いわゆるリアリズム演劇であり、額縁舞台といわれる既存劇場での上演形式の舞台だったのだ。東宝にいけたのも、そこである程度の評価をいただけたのも、じつは、出自に中、大劇場に対応できる勉強を10代中ごろから、させてもらっていたことが大きい。大ホールでのイベントを仕事してやれるようになったのも、舞台構造と生理、仕掛けを知っているからだ。
結局、早稲田小劇場が早稲田を去って数年間、私は毎年、利賀村まで足を運んでいた。劇作家や演出家はもちろん、後に東宝でご縁をいただくことになった、演劇室長の渡辺保先生や演劇評論家の大笹吉雄先生もそこにいらした。
リアリズムの壁を越えて、演劇の本質と出会わせてくれたのは、鈴木忠志メソッドだった。そして、その基本にある能楽だったのだ。
リアリズムの壁を越えて、演劇の本質と出会わせてくれたのは、鈴木忠志メソッドだった。そして、その基本にある能楽だったのだ。
鈴木メソッドや能楽の延長に、グロトフスキーなどの現代欧米演劇や舞踏を学ぶようになり、脚本主義、いわゆる文学主義から俳優の肉体や舞台の絵画、造形性にこだわりを持つようになれた。ロシアシンボリズムやドイツ表現主義を学んだのもその頃だった。
ところが、能楽に没頭すればするほど、一切の余剰を排した所作やたたずまいに深くふれるほどに、気づかされた。スタ二フラフスキーのいうリアリズムは、いわゆる日本近代演劇が目指していたそれとは大きく違う。逆に、能楽の「花伝書」と符合することの方が多い。バイアスのかかった理解のされ方しかしていなかったのではないか…
スタ二フラフスキーシステムの継承者である、ニューヨークアクターズスタジオのトレーニグメソッドを知って、確信した。
日本の近代が、江戸文化、日本の伝統文化を否定してしかなしえなかったように、近代演劇も歌舞伎や能楽といった日本古典芸能を否定することでしか出発できなかった歪さがそこにあったのだ。15歳で芝居を志して25歳になってやっと気づけた事実だった。
梅若玄祥の存在感は圧倒的だった。画面でそれが伝わるということは、実際の舞台では声も出ないほどだろう。ギリシャの演出家と妥協点を探る姿勢と謙虚さにも驚かされた。だが、ギリシャの著名演出家、つまり西洋文化との融合より、より能に寄せた方が、質的にはよりよい舞台であったのではないか…