秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

自由を求めながら、不自由を選択する

自由を求めながら、不自由を選択する…そこから自由になるしか、自分たちの夢や希望を本当の形で実現することはできない。
 
今朝のFBの恒例コメントに掲載した文章の一節。よく考えれば、10年一日のごとく、オレはそればかりを求めて、思春期以後、生きてきた気がする。
 
滝沢修の「セールスマンの死」や杉村春子北村和夫小川真由美の「欲望という名の電車」、小沢昭一山口崇の「出口なし」、俳優座の増見利清先生が新解釈で初演した、山本学佐藤オリエの「ハムレット」。劇団雲ができてまもない頃の芥川比呂志主演の「リア王」…
 
高校生の頃にそんな舞台を観て、感動し、民芸や俳優座、東京小劇場といた劇団に進もうかとも思いながら、しかし、それでいいのか…と疑問を感じた。
 
上京して強い影響を受けたのは、早稲田小劇場(現SCOT)の鈴木忠。利賀村公演のときは、たいして縁もないのに、打ち上げの末席にちゃっかり座っていた。
 
その席には、東宝演劇企画室長で演劇評論家渡辺保先生や評論家の大笹吉雄、愛読書だった「心より心に伝ふる花」の著者で、能役者・俳優の観世寿夫先生、お加代さん(白石加代子)、吉行和子、豊川潤、それに舞台秀嶋組の照明Yがいまも仕事をしている清水邦夫がいた。
 
小劇場シンポや飲み会では、生田萬さんや流山児祥さんにお世話になった。生田さんの奥さん、銀粉蝶はきれいだった(笑)。
 
後に東宝ですいぶんお世話になった方たちもその中に多い。が、やはり、いろいろと声をかけてももらい、期待もされたが、それいいのか…とお断りした仕事もある。

系列や系統、系譜…ということがオレは好きではない。好きではないというより、そこからいつも逸脱した作品がやりたくなる。渡辺先生、増見先生、藤木先生はそんな手のつけられないオレを買ってくれた、数少ない人たちだったと思う。
 
映像の企画制作会社で、サラリーマンを一瞬だけやったが、そのときも得意先の大手企業から「うちに来ないか?」と声をかけれたが、系譜にはとても収まりそうにもないオレを放し飼いにしてくれた社長から離れる気にはなれなかった。その言葉に乗れば、規制や枠の中でがんじがらめにされる…とわかっていたからだ。

基本、オレは自分の内実で動く。表現したいと思う作品にしか、手を染めない。手がかりが何もないのに、機械のように何事かをつくりあげるということは潔しとはしない。それができないなら、自分で一から組み上げてつくる方がよほど楽…そう考える男だ。
 
幸いにして、気骨のある仕事のやり方を教えてもらえる人たちと若い頃から出会えたことは、大きな財産になっている。それをどう形にしていくかを会社の役員時代に教えてもらえたことも大きい。
 
だから、権威とか、組織とかを鼻から信じていない。まして、震災が起きて、いろいろなものが壊れた。壊れただけでなく、壊れた結果、人々が権威や組織といったものをますます信じなくなった。
 
かといって、脆弱なものでも受け入れてくれるほど甘くはない。これまでの経験や実績などというものにしがみつかず、しかし、質として確かなものを求めている。自分たちの心に届くものを探している。
 
それは既存の権威や形からは、生まれてこない。それでいながら、どこかでいままでの経験が通じると思っているおバカさんがこの国にはたくさんいる。
 
自由を求めながら、不自由を選択する…そこから自由になるしか、自分たちの夢や希望を本当の形で実現することはできない。
 
その答えは、これからますます疲弊し、立ち行きいかなくなる姿の中でしか、自覚できないかもしれない。