秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

地域が強くなるために

世阿弥と出会ったのは、上京してすぐだった。

それまで、新劇の三大劇団、文学座俳優座、民芸、あるいは、昴、雲、文化座、青年座、東京小劇場、俳優小劇場の舞台ばかりしかみていなった、地方の高校演劇出身の青年にとって、早稲田小劇場(現SCOT)の芝居は衝撃だった。
 
しかも、その劇団が、早稲田大学の劇研(演劇研究会の略)から生まれ、別役実の作品からスタートした劇団だと知ったのも、そのときだった。
 
高校生のとき、地元、西南大学のチャペル劇場で岸田戯曲賞を受賞した別役の「マッチ売りの少女」をみていた。
 
テネシーウィリアムズやアーサー・ミラーからは想像もできないが、どこかにそのテイストがある。しかし、まったく内容は不明。だが、最後まで引き込まれるようにみた。別役さんの脚本の力だった。のちに、劇団円のそれをみて、理解不能だったのは、学生の演技力の足りなさなのがわかった。

それからというもの、オレはまるで敵を学ぶみたいな勢いで別役戯曲を読み漁った。別役作品がテレビになると欠かさず見た。結果、つかこうへいの世界が、一見そう思えないが、じつは、別役作品の生き写しだということも知った。
 
そんなときに、遅れてきた青年のように、オレは早稲田小劇場の舞台とクラッシュしたのだ。それはもはや、戯曲という世界、文学という世界を越えて、まさに、俳優の身体だけに依拠した、芸術だった。しかも、扱っている戯曲がギリシャ悲劇やシェークスピア…それでいながら、舞台はまさに能楽。戦慄だった。
 
演劇というものの価値観と世界が一気に広げられたのだ。以来、世界のアヴァンギャルド演劇や新しい演出の舞台、それにまつわる芸術を必死で学んだ。
 
そして、早稲田小劇場の鈴木忠志が提唱する能楽、しかも世阿弥の世界にぐいぐい引き込まれていった。すべてにおいて、能楽があらゆる演劇理念、理論を凌駕していたからだ。

早稲田小劇場が早稲田を去る頃、『夜と時計』という舞台をやった。ベースは、「マクベス」。そのときの震えるような感動はいまでもはっきり覚えている。以来、オレは、富山に移った早稲田小劇場を観に、毎年、利賀村へいっていた。
 
そこで、打ち上げの席に座らされ、世阿弥の末裔である、観世寿夫さんや栄夫、のちに東宝演劇で指導いただいた渡辺保先生たちの末席にいさせてもらえた。主演の白石加代子さんにお酌をしていただいたときは、震えた。まだ、20代の初めのことだ。それは震える。

オレの舞台は決して、早稲田小劇場のような舞台ではない。だが、俳優の訓練には、それを要求している。重心をしっかり落とし、地面にすくっと立つ。それは、オレがやっていた剣道にも通じたのだ。間合いと息、佇まい、構え、所作、舞と踊りの基本、それは武術、武道も同じだった…日本人の生理が世界に通じる…そう思った。
 
つまり、形(かた)の鍛錬が大事。まずは、形を身につけることなのだ。生まれながらに、あるいは幼少の頃の稽古事でそれを身につけている人もいる。だが、それがないなら、まずは、形を身体にしみ込ませることを先にやらなくては、一流にはなれない。せめて、外見から変えることが重要。

心情からではなく、形から内面をかえていく…それだからこそ、古典芸能は幼少期から鍛錬ができる。心情分析からのリアリズム演劇ではそれはできない。だから、うまい俳優というのは、脚本の心情分析から入らない。形から入る。これをオレは世阿弥から学んだ。
 
オレがいわきと出会い、心を動かされたものにいくつかある。だが、ひとりの演劇人、映画人として心が震えたのは、じゃんがら念仏踊りだった。あるいは、地域でやる、よさこい踊り。あるいは、地域の祭りだ。
 
そこには、福島に限らず、地域が長い歴史の中、中断されることなく続いた、形がある。それを幼い子どもたちに地域の身体所作として継承し、口伝で受けつがれている。まさに、身体所作の継承を通じて、地域の文化を継承しているのだ。
 
地域が強くなるために、オレはそれが必要だと確信している。
 
Smart City FUKUSIMA MOVEは、福島の身体を取り込みたい。まだ数は少ないが、市民団体の芸能や方言を盛り込んでいるのはそのためだ。
 
 
写真は、薄磯で被災した丸又蒲鉾の高木聡子常務。被災の現実を実感し、いま、風評と立ち向かいながら、再開した工場で闘い続けている。その力のもとに、薄磯がつくった身体の文化、地域の芸能の力があることはまちがいない
 
初対面のとき、年齢で大変失礼なものの言い方をした。許していただいているかどうかは、まだ、わからない…w 隣は、お母さんの専務の京子さん。
イメージ 1