秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

一生懸命のその先

「一生懸命なんて、最低限の庶民のルールだろうが! そんなものひけらかして、自分はがんばってますなんて、くだらない言い訳してるんじゃないだろうな!」

正確ではないけれど、つかこうへいの名作『熱海殺人事件』にそんなセリフがあった。

からしアイロニーだが、ぼくも一生懸命という言葉は好きじゃない。一生懸命やるのは当然だから。その上で、なにをやるか、なにをするかが重要だから。

一生懸命は、その上、言い訳にもなるから。一生懸命やったのだから、仕方ないさ…みたいにね。その反対で、お前の一生懸命はその程度か。一生懸命さが足りないからこんなことになったんだ…みたいに、人を責め、追い詰める言葉にもなるから。

だから、一生懸命なんて言葉は、言葉に敏感で、真摯な人なら、普通には使えないし、使わない言葉だ。素晴らしい戯曲や脚本には、まず間違いなく、この言葉、言葉通りには登場しない。

もうすぐ、2017年、平成29年という年が終わる。ぼくはこの年末もあれこれ実務があり、いつものように一年を振り返るといった時間のゆとりはないけれど、自分も、周囲も、そして、社会や国、世界は果たして、「一生懸命」だったのだろうか…

人ひとり生きていく、それは善悪や軽重の問題ではなく、人が生きるそのこと自体が素晴らしいことなのだ…だから、一生懸命だったかと問うのは、ある意味愚問かもしれない。

けれど、このところのぼくらは、一生懸命とか、一所懸命とかいった重い荷物を下したかがっているのじゃないのか…と考えたりする。

使うことがためらわれる言葉だから、使うことが気恥ずかしい言葉だから、一緒にその中身までも下してしまっているのかも…と思ったりする。

中身まで空洞にすることで、言葉の軽さが増して、どこでも、だれでも一生懸命が通用するようになっていないのだろうかと疑問を持ったりする。

一生懸命という文字をよく読めば、生涯のすべてを懸けてということだ。一所懸命という文字は、一つことにいのちを懸けるということだ。それほど、大変な決意と矜持のある言葉だ。

ぼくは仕事や社会的な活動、福島のことにかかわっているとき、お前は本当に懸命にやっているかといつも何かに問われている。

無欲さや純粋さ、柔軟さを失ってはいないか。ひとりよがりになっていないか。手抜きしてはいないか。楽しようとしてないか。もっとやれるのではないか。もっとやることが、できることがあるんじゃないか。いうべきこと、伝えるべきこと、そして、聴くことがあるのじゃないか…

そして、ひとつ終わると、ああ、まだまだ力が足りない。もっとこうできたのに。周囲への気配りや配慮が足りなさすぎる…そんなことが押し寄せる。

つまり、一生懸命、一所懸命がまだまだわかってないなと突きつけられる。

けれど、世の中を好きなようにしている人たちや世界を自分の思う通りにしよう、自分の考えだけを押し通そうとする人たちには、それがまったく感じられない。そして、それに真っ向から意見を言う人も、意見をいうことで不利益があっても声や行動を起こそう、それができなければ、自分の生活のわずかなところからでも変えていこう…

そういう人が少なくなっていっているような気がする。

だから、きっとテレビや映画は、簡単に感動させられる、一生懸命や一所懸命な人の姿を描きたがる。まるで、特質した、特異な人や人のドラマのように。特質した、特異な人ではない人たちにある、家庭や地域や社会、国、世界を支えている普通の人たちの一生懸命さ、一所懸命さに気づけない、拾えない。

ぼくも人のことはいってられない。残り数日をやれることをやり、年明けには、もっと誠実に一生懸命、一所懸命に日々を刻むことができ、言葉にはしなくても、内実がきちんと示せる、その先を目指そう。