くじけて強くなるんだよ
世の中は、大義という名の名目で動いている。
自分には道義がある、事を起こす道理がある。自分という個人で覚束ないときは、集団や組織、地域、社会、国家のそれに置き換えて、大義を主張する。
だが、軸にあるのはあくまで、自分のそれであり、自分が属する集団のそれであり、場合によっては、属する集団をまた支配する集団のそれであったりする。
つまりは、大義というのは相対的なものでも、絶対的なものでもない。普遍的な価値に照らしてのものではない。
だが、また同時に、それがなくては、人は集合することも、何かを達成することも、実現することもできない。
いまこの国、世界に蔓延している「大義」。それはいわば、自分、もしくは自分たちに都合のいい状況をつくるための名目に成り果てている。
なぜか。大義というものがほぼ裏切られてきたからだ。
そもそも、人が大義をいうとき、そこには私利私欲や打算、計算、いま流行りの忖度の隠れ蓑にするというのが世の習いというものだ。
昔の歌謡曲に、「どうせ私を騙すなら、死ぬまで騙してほしかった」という歌詞があったが、大方、そうした大義はばけの皮が剥がれるものだ。けれど、当てになる大義がなければ、おかしいとわかっていもて、それを続けたがる、大義という名目にぶら下がりたがる。
大義をいう貴乃花親方の稚拙さと頑なさもだが、国会の首相、閣僚、官僚の口裏を合わせたようなかばい合い答弁も、いまやアメリカの恥とまで言われ出した、大統領のツイッターも、すべての大義は自分にあり、ほかの言い分にも耳を傾けようともしてない。
きっとくじるけることが怖いのね、君たちは。いいんだよ、くじけても。人も家庭も社会も組織も、国もくじけて強くなるんだよ。