秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

くじけて強くなるんだよ

世の中は、大義という名の名目で動いている。

自分には道義がある、事を起こす道理がある。自分という個人で覚束ないときは、集団や組織、地域、社会、国家のそれに置き換えて、大義を主張する。

だが、軸にあるのはあくまで、自分のそれであり、自分が属する集団のそれであり、場合によっては、属する集団をまた支配する集団のそれであったりする。

つまりは、大義というのは相対的なものでも、絶対的なものでもない。普遍的な価値に照らしてのものではない。

だが、また同時に、それがなくては、人は集合することも、何かを達成することも、実現することもできない。

いまこの国、世界に蔓延している「大義」。それはいわば、自分、もしくは自分たちに都合のいい状況をつくるための名目に成り果てている。

なぜか。大義というものがほぼ裏切られてきたからだ。

大義というものは、それに則ろうとすればするほど、弱くなる。社会が大きく変わり、世界が大きく姿を変えていくと、大義が通じないことが増大する。

ただでさえ、大義を貫くというのは至難。それがかつてのように、一つではない、一枚岩ではなくなると、これまで通じた大義は大丈夫か?と不安になる。つまりは、弱くねぇ?となる。大丈夫かぁ?と疑心暗鬼になる。

そこで、弱い大義、貫けない大義ではなく、強いそれ、貫けるという期待を持たせるものに身をゆだたくなる。

そもそも、人が大義をいうとき、そこには私利私欲や打算、計算、いま流行りの忖度の隠れ蓑にするというのが世の習いというものだ。

それほどに、大義は政治にも、運動にも、革命にも都合のいいように利用されてきた。また、大衆も、大義を強くいわれて、それに熱狂してきた。熱狂しないまでも、当てになりそうだからとそれを支持してきた。

昔の歌謡曲に、「どうせ私を騙すなら、死ぬまで騙してほしかった」という歌詞があったが、大方、そうした大義はばけの皮が剥がれるものだ。けれど、当てになる大義がなければ、おかしいとわかっていもて、それを続けたがる、大義という名目にぶら下がりたがる。

大義をいう貴乃花親方の稚拙さと頑なさもだが、国会の首相、閣僚、官僚の口裏を合わせたようなかばい合い答弁も、いまやアメリカの恥とまで言われ出した、大統領のツイッターも、すべての大義は自分にあり、ほかの言い分にも耳を傾けようともしてない。

それでいながら、おかしいぞと声をあげているのは、アメリカの司法とマスコミくらいで、いまやこの国のどこにも、まともな大義はない。

きっとくじるけることが怖いのね、君たちは。いいんだよ、くじけても。人も家庭も社会も組織も、国もくじけて強くなるんだよ。