秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

そのためなのだ

三世帯同居の家でもない限り、高齢者の姿やふるまい、言葉が日常的な時間からすっかり遠くなっている。

かつて、老い行く姿と死は生活としてあった。家や土地の普通としてそこにあったからだ。老いと死を含めて地域があったからだ。

だが、いまでは、それらは施設や病院、あるいは孤立しつつある地域、孤立してしまった地域や孤立した家、団地の一室に閉じ込めれられている。

ぼくのように少年の頃からデラシネで、ひとつの土地で過ごしたことのない者は、いい歳になっても、限られた老いと限られた死としか向き合ってきていない。

おそらく、高校を卒業後、大学や就職でふるさとを後にした者も大半がそうだと思う。

老いと死は土地とつながっていないと向き合えない。

物を軸とした生活の豊かさや利便性の追求は、どうあがいても、地方より都市的なものへ傾斜する。そして、いつしか都市消費を維持するための生活に追われ、老いや死をその中に取り込むことができない。

なぜか。都市(資本主義)の生産性や効率といった概念では老いや死は駆逐されていくからだ。根をもたないこと。それが都市を生きるために必要だからだ。とくに、この国では。


そのために、高齢者と老いと死は、街の片隅に、生活の向こうに追いやれていく。

昨日、閉店した酒ばやしハンナのママが、いつものように妖術や魔術を使うようにして、何の予兆もなく、すっとうちのマンションのドアを開けてはいってきたw

60歳のママと出逢い、それから20年。すっかり耳も遠くなり、くちもとに高齢者ならではの唾しぶきを残す。もともと美形でトランジスタグラマな女性で、教養も高く、ゆえに知識欲も高い。だが、寄る年波には、逆らえない。

耳が遠くなくても、もともと自分の話しかしない奴なので、会話はかみ合わないのだが、すれ違う会話を楽しみながら、こうやってこの国の一番の激動を、しかもまだ女性の人権がまともに認められていない時代に生きた人間の声や考えが消えていくことが、果たして、この国にとって、次の時代を生きる人たちにとって幸せなことなのだろうかと思った。

ぼくのように曲がりなりにも表現や活動の場を持つ者ですら、消えていくものだとどこかで覚悟しているが、ぼくのような場を持つ人間ではなく、ハンナのばばあのような人たちの声こそが、日常になくてはなくてはならないもののような気がする。

ぼくが、演劇の知識や経験を生かして、いま地域の古典芸能や食や地域文化を少しでも都市の子どもたちに伝えようとしているのは、そのためなのだ。

それにしても、マンションの入り口のドアロックがあるのに、インターフォンもならさず、どうやって入ってきたのだろう…やはり、妖術か、この世のものではないのか!w