美しい顔をした悪意
三島由紀夫は「美しい顔をした悪意」という言葉をよく使っている。
三島の小説世界には、感触がない。感触を伝える小説の技巧を意図して削り、文楽や能のように、微細な所作やふるまい、視線の中でそれを伝えようとする。
その二次元世界の中では、「美しい顔をした悪意」は能面や文楽の傀儡のように、より冷たさ、こわさ、威圧、性を色濃く含有している。それが美しい文体と相まって三島文学の凄みにもなっている。
「美しい顔をした悪意」が美しく、穏やかであるがゆえに、悪意を消していることに、気づけず、三島の小説に登場する人々はそれに翻弄され、ときは快楽や堕落に溺れていく。
いま、ぼくらの国や世界で起きている、異常ともいえるUniveral Value(普遍的価値)への冒涜と破壊は、まさに、三島の言う「美しい顔をした悪意」のそれだ。
残念ながら、三島の小説に登場する登場人物たちのように、いまこの国、世界で権力や特権で社会倫理を平気で犯している人間たちの外見、容姿は比べようもないほど、美しくはないw
残念ながら、三島の小説に登場する登場人物たちのように、いまこの国、世界で権力や特権で社会倫理を平気で犯している人間たちの外見、容姿は比べようもないほど、美しくはないw
だが、こういう言い方をすれば、こうした態度を示せば、これをしてやれば、それに同調する人たちが多数いることをよく知っている。
そうした人々も決して、悪意のある人たちではない。従順で、和を保とうとする、いい人たちだ。和を保つことが現状を維持し、守ることだという単一の回路しか持たないだけのことだ。そこだけは思考停止し、まるでなにかの信仰のように権力を疑う事を知らない。仕方がない。そういう教育しか受けていない。
ただ、三島の登場人物とは違い、背後に「美しい顔をした悪意」を演出している輩がこれまでもいたし、いまもいるのだけれど。
いま森友、加計問題の質疑で、空いた口がふさがらない対応が国会でされている。反省・謙虚の言葉はどこにいったのだろう。
「美しい顔をした悪意」を使った三島由紀夫は、だが、『文化防衛論』の中で、アメリカに依存したこの国のあり方を批判し、日本の真の独立を強く主張していた人間だ。決して、今日のような隷従対米依存を許してはいない。
まるで悪意はなく、国民優先の国、社会、地域づくりに邁進するというのなら、国民の多くの疑念や不安に応えることを先にし、疑念や不安のない応援する人を後にするのが反省・謙虚を行動で示すことじゃないだろうか。
だが、それも、能面や傀儡の顔が何事もないかのように、道理を遠ざける。それがぼくら国民が選択したいまだ。それはあの大統領選のアメリカのときのように。