秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

熱狂のサボタージュ

昨夜、スポーツバーやテレビ画面を置いていない飲食店は、きっと閑古鳥だったに違いない。
 
酒を飲みながらスポーツ観戦をする。それはかつて小さな居酒屋割烹や町の食堂の世界だった。しかも、大半は相撲と野球、せいぜいプロレス。それがいまではすっかりサッカーやオリンピックに代わり、かつ、マンハッタンのしゃれたスポーツバーやロンドンのパブ並の世界に変わった。

熱狂した若者たちやサポーターが街に繰り出し、人迷惑な気勢を上げ、公共の場をわが者顔で支配する…それも、海外並の風景に変わっている。

確かに道徳心のなさはいかがなものかだが、それに眉をひそめてばかりではいられない。
 
欧米文化のままに、サッカーに熱狂し、その熱狂を公の場に平然と持ち込む。それ自体は途轍もなく軽薄極まりない。だが、そうした好都合の機会と無礼講を当然とされる場がなくてはそれができないというのも悲しいものだ。

いかに普段から横のつながりが希薄で、縦の関係では抑圧され、自分たちの熱狂を爆発させられない日常を生きているかということの証明でしかない。その意味で、欧米も日本も大して違いはない。
 
世界全体で、若年層の就労の場とチャンスが失われ、所得においても低所得が続いている。それでいながら、労働条件は決していいというものではない。もちろん、一部の選別された若者たちは、その範ちゅうにないが、いま多くの若年層がその中にいる。
 
一見、安全と思える組織や団体に帰属していても、組織の中で、自分の思うことが言え、働くということに喜びを得られている若い層はそれほど多くない。どの分野でも、依然としてある先行世代の慣習や常識論の前で、踏みつぶされている若い人たちの気持ちは少なくないのだ。

とりあえず上のいうことを聞いていれば、うまくいく。その中で発露されない思いは、どこの組織でも団体でも、分野でも醸成されている。それが、ひとつの機会、場があると、一気に吹き出る。
 
だが、ヘタな社会運動や地域市民運動に行かれるより、その方がまだまし。そう考える連中は、逆にサッカーやオリンピックを利用して、ガス抜きをする。

そうこうしているうちに、世の中の見なくてはいけない現実や知らなくてはいけない事実…そして、その向こうにあるいまの社会の真実が見えない世界に塗り込まれていってしまう。

治世者の側も、そして民衆の側も、熱狂というサボタージュによって、いま自分たちが抱えている試練や課題を遠ざけることができる。いや、もっと正確にいえば、熱狂したいのだ。
 
変わらない現実の試練と課題に無力である自分たちの姿をみつめないために、人は熱狂する。熱狂の渦の中にいることで、自分たちのサボタージュをみないようにする。
 
 
牽制球を投げる投手のように、片目の奥で、ひそかに何かをしようとしているランナーの姿をみていなければ、マウンドをまかされた投手は責任をとれない。熱狂する観客にいいパフォーマンスを示すこともできない。