秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

飽き飽きさせてしまう国

小中学・高校大学の学生生活の中でも、社会に出て、その仕事の形態や内容は違うにせよ、集団や組織、チームの中でも…
 
そこには、必ず、自分という人間を理解してくれる人、できない人、しようとしない人、あるいは、指導してくれる人、しない人、できない人というのがいた。

また、相手の側の打算や計算で近づく人、近づかない人というのもいた。同時に、こちらの算段で、仕事上の打算も含めて、こういう人とは人間的につながっておきたい、知り合いたいという人もいた。
 
場合によって、異性間においては、性的にながることで都合のいい状況をつくろうとする人、性的につながらないまでも、性的なにおいを感じさせて、そうする人もいるかもしれない。
 
あるいは、セクハラやパワハラモラハラがあるように、それを代償として、いい条件を与えるという輩もいる。そしてまた、打算で、それを利用しようという人もいるだろう。

人間というのは、いつもいうように、平常にあっては倫理や道徳、けじめや理屈はいえても、そうではない環境や条件の中に放り込まれると、本来あった姿とは容易に変容する。
 
基本、邪で、いい加減で、お調子もので、ごまかしやウソもいえば、虚勢や見栄、意地を張り、自己中で傲慢な存在なのだ。自分の罪を素通りすることさえできる。だから、有事となった瞬間に、人は人を殺すこともできる。それが有史以来の人の歩みだ。

だからこそ、それを多数の人との関係の中で、気付き、見直し、点検し、本来ある歪さを日々どこかで修正し続けていないと、おかしなことになる存在だと思っている。

だが、その汚濁したように思える人の本質と人が集合する社会というものに、じつは人間の真実もあれば、弱さも、そして、それを生きぬく強さもある。
 
人間がどうしようもなく、過ちをやり、同時に、多くの救済を実現してきたのも、それがあったからだ。
 
子どもの頃から、自分にとっていろいろな立場をとる人がいたこと、そして、仕事や生活の場に、同じようにいろいろな立ち位置をとる人、それが場合によって、自分にとって不利益や傷を与えるものだったとしても、必要なことだったのだろう。

もう何年も前からいっているように、だが、この社会は孤衆化が進んでいる。自分の都合に合う人、計算や打算でつながりたい人、趣味や好みを同じくする人たちだけがつながる、カスタマイズ社会へ急激に傾斜している。
 
カスタマイズされた株価操作だけで格差が生まれる。
 
それははじかかれる人を生む。
 
太宰は、戦後の日本の宗旨替えに落胆して死んだ。「人間失格」で、作家として書き終えてしまったというのが一番の要因だが、同時に、天皇からマッカーサーへ一晩で変身できる日本人の百姓根性に嫌気が差していた。倫理と道理がなくなかったからだ。
 
いまこの国が先進国トップの自死者を生み、その中心世代が20代から30代というのは、もしかしたら、そういうことなのかもしれない。
 
飽き飽きさせてしまう国…そこで、大義のない解散総選挙がおっぱじまる。年の瀬の行政予算の執行を待つ人たちがいる時期に、国民の税金を惜しげもなく使う。
 
復興事業も、社会福祉事業も、それで停滞する。国民の生活が圧迫される…