秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

あなた次第

いまでは何か特別の用件でもない限り、自分の育った街に帰ることはない。

それでも、前もって帰省の連絡をすると、高校時代の悪友たちが数人集まってくれる。これといって話すことがあるわけでもなく、互いの近況を少しばかり話すと、あとは高校時代のやんちゃ話に終始する。

ずいぶん前だが、そんなやんちゃ話の中で、ある友人がぼくやぼくの仲間たちがやっていた学内での活動のことをこう評したことがあった。

「おまえたちは、いろいろやりよったけど、オレたちには何の関係もなかったけん。普通の生徒にしたら、遠い話やったもん」

ぼくはそのとき、久しぶりに熱くなって、彼にこういった。

「それはちがうぜ。確かに、お前やお前の周囲の奴らにしたら、遠い話で、自分たちの学生生活とは関係ないように思ったかもしれない。けどな。そんなお前たちの知らないところで、闘っている奴がいるおかげで、お前たちものんびりした生活が送れていたんだぜ」

奴はきょとんとなって、「なんでや?」と聞いてきた。

「自分たちの権利を守る。人の自由を守る。そのために闘っている奴がいて、初めて、それは守られてるからさ」
「……」
「人間の自由や権利なんて、最初からあるものでも、守られてるものでもない。仮に法律や制度がそうだといっていても、それはいくらでも踏みにじられるし、いくらでも奪われる。いくらでも好きにされてしまう。そうさせていないのは、守ろうとしている奴がいるからなんだ」
「そうや?…」

結局、彼は納得していなかったが、それが多くの政治や制度に無関心か従順な人間の反応なのだろうなとも思った。

いまどき死語だけど、政治に意見や主張を持ち、反論や追及する人間たちを左翼だとか、アカ(社会主義者共産主義者)とかいった言葉でひとくくりにしたがる。

不祥事や政治の欠陥、問題点を追及すると、わがままな主張ばかりする身勝手なうるさい奴、面倒な奴、やっかいものとくくりたがる。

だが、ほっとけば、いくらでも好きにされてしまうぼくらの暮らしは、そうしたうるさい奴、面倒な奴、やっかいものにしてスポイルしてしまいたい人たちによって、からくも守られきたし、現実に守られているのだ。

確かに、偏狭な奴は、保守だけでなく、反保守にもいる。だが、まっとうな意見や主張のある人間をすべて群れから外れた余計者とする社会は決していいものではないし、組織や地域、社会、国、世界をよりよくするものではない。

海外で長く生活したり、滞在し、かつ、なにがしか達成しようとするものがあれば、日本のように、なんでも右ならいではまったく通用しないことがわかる。言うべきことをいい、やるべきことをやり、かつ、やらせるという強い意志や思いがないと海外ではなにひとつ手に入れることはできない。

もちろん、海外にいても同じような人間、同調性の強い集団にしかいなければ、日本にいるのとそう変わりはしない。それは異常なことで、海外で暮らせば、違いがあって当たり前というのが普通だ。

いまこの国でも世界でも、同質性、同調性ばかりを求め、ポピュリズムを背景にした数の力で、分断と格差、排除と対立が起きている。

いろいろな人間、いろいろな主張があっていいを前提とすることができず、民主主義の名の下に、民主主義を骨抜きにする力が世界に広がっている。

前にもいったが、民主主義の最大の敵は、民主主義そのものなのだ。民衆が自ら居心地のいい同質性、同調性に執着し、身をまかせていけば、民主主義の顔をした権力がいくらでもぼくらの権利と自由を反故にできる。

22日は国政選挙。世界から孤立しつつあるアメリカのように、それって、おかしくないですか?が通らず、それが言えない社会、国にしてしまうかは、あなた次第。