秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

望ましい未来

ぼくは、思春期のあるときから、思うようになった。

なにかの判断や決定、自分自身のいま、そして、これからにかかわることを何かにゆだねたり、何かに従って決めるのは、やめた方がいい…

だれかや何かに大事をゆだねてしまえば、あるいは、自分が決めても大したことにはならないだろうと投げてしまっても、それは結果的に、自分自身の問題、責任になって返ってくる。返ってくるだけではない。自分で決断しなかったことを後々、悔やむことにもなる。

どのような決定であれ、どのような判断であれ、自分で決したことは、良きにつけ、悪しきにつけ、成功にせよ、失敗にせよ、自らが引き受けていかなければいけないことだからだ。そして、そこには、言い訳が利かない。

だれかに影響されてとか、テレビでいっていたからとか、みんながそうだからといった理由は、理由にならない。最後には、決めたのはあなただと言われるからだ。

そう思うと、よりいい判断をするためには、自分の目と耳と頭で、より確かに物事を見よう、生き方を考えようと思えるようになっていた。それは、結果的に、物を知ろう、学ぼうという意欲につながった。いろいろな人と出会い、語り、議論しようという行動になった。

そうやって、周囲をみつめ、世間や世の中といったものを見ていくと、それまで、自分が信じていたもの、信じようとしていたものに、たくさんのごまかしがあり、まやかしがあり、辻褄合わせや取り繕い、言い訳があることを知ったのだ。

政治はウソをつく。そのとき、決定的に知ったことはそれだった。だが、ぼくは、だからといって、政治を知ること、考えることをやめようとはしなかった。いや、だからこそ、やめてはいけないと確信したのだ。

ぼくは政治家や政党といったものを認めていない。それはどのような政治家であれ、政党であれ、同じだ。だが、エセ民主主義は多数決が基本だ。であれば、自分の意志を何らかの形で表明した方がいい。

迷うなら、利権に群がるのではなく、自分の生活の安定のためではなく、より多くの人、自分よりも社会的困難や試練にある人たち、社会から取り残されている人たちにとって、望ましい選択は何かを考えることだ。

政治家も政党もすでにそこにあるものではない。出来上がっているものではない。必ず欠陥がある。政治家も政党も、えらそうに見えたり、立派に見えるかもしれないが、そんなことはない。所詮、ぼくらの血税で食っている人間でしかない。

政治家も政党も、そして、政治も、最後は、ぼくらがつくるものなのだ。

「私の言う通りにしていればいいんです」。自分の主張以外は受けいれようともしない強圧的な政治が、今回の選挙でも選ばれようとしている。現状の力におもねることで、自分だけの安定を願う選択をすることを恥じとも、疑問とも思わない、民度の低い選択がされようとしている。

力に頼らないと損をする。それにあらがう力がなくなった国に、次の世代に誇れるものは何もない。多様な力、多様な声、それらが共にあることで、未来はつくられるのだ。画一からつくられる未来は、歴史上、望ましい未来をつくったことは一度もない。