秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

踏み絵

ぼくらは、いま「踏み絵」の時代を生きている。

味方か敵か。同じか同じでないか。仲間か仲間ではないか。自分たちの世界のものかそうではないか…。

いま話題の政治の世界の話ばかりではない。いや、政治がそうなのは、ぼくらの生活、家庭、地域、社会、もっといえば世界が踏み絵を当然とするものに変貌しているからだ。

いつなにが起きてもおかしくない。その不安は、人々を疑心暗鬼にさせ、とらえることなど不可能な人の真実をあらんかぎりの手立てをつかい、あぶりだそうとする。

自分たちが安全であるために、自分たちの居心地がよいと思う世界観、仲間意識を守るために、強化するために。

だが、常軌を逸した潔癖症のように、かくあらねばならぬに固執すると、確かめても確かめても、あぶりだせない現実にいら立ち、狂気のように人の内心を探りたくなる。

たくなるばかりか、逃げ場のないところに追い込んで、yes or  noを迫る。

追い込まれた人たちは、生き延びるために、生活のために、社会参加のために、やむなく、noをいえなくなり、yesという選択のない選択をさせられる。苦渋の中でそうする人もいるが、多くは、それが生きる道だと迫られた選択の理不尽さを容認していく。

不安を煽られると、人は選択のない理不尽さを容易に容認できるのだ。しかも、容認しなければ、社会から排除される。容認しなければ、守ってもらえない。


遠藤周作の小説で、先ごろ、ハリウッドでも映画化された『沈黙』。その大きな歴史エピソードとして取り上げているのが、この「踏み絵」だ。

スコッティ監督がいまあえて、『沈黙』を映画化した背景にはトランプ政権の登場にみられる、社会の分断とそこにある力による排除と差別、暴力への警鐘がある。

作品の出来不出来は別にしても、スコッティが踏み絵時代の登場に大きな危機を直感し、あえて映画化の難しい作品に挑戦したのはまちがってはいない。

いろいろな意見、多様な声、対立する主張。人の内心や真実を知る手がかりは、じつは、疑心暗鬼に威圧的に、yes or noを迫ることとは、まったく逆のところにある。

多様性がゆるされる自由さ、開放された場や世界でこそ、人は内心を発露し、発露するだけではなく、どう他と違いを乗り越えて共にいられるかを考えられるのだ。そこにこそ、人それぞれが求め、つくる真実の世界がある。

『沈黙』の中で、神は答えをくれない。沈黙したまま、人間の業をただ見守っている。
踏み絵を踏んだ者も沈黙の淵に落ちる。だが、沈黙は、沈黙によって、人が生きるべき選択を伝えている。雄弁に語っている。

だれのための、なんのための、与えられたいのちなのか。自分のためだけではない、いのちの意味だ。

そのとき、踏み絵に対して、答えるべき答えに人は出会っている。その気づきは、人の次の行動を決定しているはずだ。

それに素直に答えるかどうか。それはあなたが与えられたいのちをだれのために、なんのために、使うかを厳しく問うている。