おかしなコミュニケ―ション力
ぼくは、たまに話上手だとか、聞き上手だとかいわれることがある。コニュニケ―ション力があるとか…
だが、ぼく自身はそんなふうに思ったことも、それを自分の取柄だと感じたことも、そうだなーと思ったこともまったくない。
自慢じゃないが、もともとぼくはコミュニケーション力などない人間だ。自分にそれがないのがわかっているので、無手勝流に自分の思い、考え、願いをただぶつけてきただけだ。
基本、ぼくはみんなに愛されようと生きてこなかったw だれにでも評価されたいとか、認められたいとか思ったことはないし、それはオレにはムリ!と鼻から諦めていたし、いまでもそうだ。
代わりに、わずかでもわかってくれる奴がいるはずだという考えしかない。だから、わずかに自分と同じか、近い考え、思いを持つ人と出会うとものすごくうれしがるw
すべてにあまねく、理解され、愛される人間は逆にいかがわしいと思うひねくれ者だから、わずかなそれに感動する度数と信頼が深い。
だから、イニシアティブは相手ではなく、常に自分にある。相手や周囲の意見や流れに合わせることはするが、心の中では別の自分がいる。
それでは、いわゆるコミュニケーションにはならない。人に合わせることも、相手が望むキャラを演技することもあるけれど、それもわずかな間のことで、結局、いつもこういわれる。
「あんたは、目が笑ってないから、こわい」…ぎゃー!!w
ぼくらの社会は、いつからか、コニュニケ―ション力のあるなしが重要になった。だが、コニュニケ―ション力があるということが逆に物事の真実や本質から人々を遠ざけることになってはいないだろうか。ポピュリズムを育てていないだろうか。
ぼくらの社会は、いつからか、コニュニケ―ション力のあるなしが重要になった。だが、コニュニケ―ション力があるということが逆に物事の真実や本質から人々を遠ざけることになってはいないだろうか。ポピュリズムを育てていないだろうか。
みつめなくてはいけない問題、気づかなくてはいけない真実から遠ざかろうとしてはいないだろうか。会話は上手。けれど、深く語り合う能力は希薄になっている。
ありきたりの言葉しか持たず、自分の言葉が相手に届かない。届かないようにしているのは、ぼくら自身だ。その連鎖がおかしな世界情勢、おかしな国内情勢、そして、おかしな政治、おかしな社会のいまを許している。