秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

帰属なきものたちと身体

人の拠り所っていうのは、いったい何なのか。自分とは何者なのか。

ぼくは、高校生の頃、サルトルの演劇の影響もあって実存主義っていう、高校生にしては少し背伸びした哲学にハマっていたことがある。ま、時代としてもそういう時代だったこともあるんだけど。

頭でっかちに、そんなことを考えていたぼくが、その手がかりが身体にあると気づかされたのは大学で、さらに深く演劇やそれを通じて身体論に出会ったからだ。

家族、地域、社会、国、民族といったものへの帰属意識、帰属感といったものは、じつは身体と切り離せない。自分とは何者か。それを証明する根拠に、身体がある。

DNAといってしまえば、それまでだけど、じつはそう簡単ではない。

いまは、自分の身体が家族や地域、社会、国、民族といったものに依拠していて、自分が何者であるかをからだの造形だけでなく、日々の暮らしの所作やふるまいにまで深くかかわっていることを意識し、自覚することは容易ではなくなっている。

家庭や地域の崩壊、社会の人のつながりの希薄化…。それは、人々から身体の記憶や身体に示されている帰属意識までも希薄にしているからさ。じつは、所作やふるまいの根源にある宗教性や精神までもね。

家族の再生とか、地域の再生、あるいは社会性の回復とか言葉を並べるのは簡単だけれど、じつは、そのためのしくみや方法をぼくら日本人や日本に住む人々はよくわかっていない。

豊さや利便性の追求の果てに、それをどこかに置き去りにしてきたからだ。

ぼくが福島のことをやるようになって、改めて気づかされたのはそれだった。

福島に限らず、近代以後、ぼくらは地方を都市の比較や都市への迎合でしか考えて来なかった。いつか、都市=国という感覚が広まり、地方はただそれを支えるだけのものになっていった。

震災後の復興や再生事業のすべてといっていいものが、整備事業や防災事業になり、肝心の地域や町、家庭を支え、回復させる事業には力を注がれていない。つまりは、都市的な力、近代の力の延長でしか対処していないということだ。

だが、それでは、力を失っている地方、地域を生き返らせる道はない。震災や災害以前から、問題はそこにあり、地方が地方であることの実存を失っていたからだ。

ぼくがいま、次世代育成交流という名前を借りて、福島の伝統芸能や文化とそれを支えてきた地域と食、生産を結び付けようとしている理由はそこにあるんだ。

祭事という宗教的な環境や場をつかい、生まれている伝統芸能とそこにある所作は、じつは、人々の拠り所の証明でもあった。

それを前近代的で、バイアスのかかったつまらない民族主義やカルト的、スピリチュアルもどきの古典主義に終わらせず、近代をもこえる、新しい再生の道標としていくことが大事だと思っている。

身体の帰属が見えなくなると、子ども、青年たちの中に、拠り所がないゆえの衝動的行動や犯罪が膨張する。帰属のないものほど、帰属意識の薄いものほど、存在の確かさを自分にも、他者にも示すことができない。

それは、倫理や道徳、常識といった枠組みの意味も失わせ、自分の身体だけでなく、他者の身体も帰属性のない、浮遊物のようなとらえ方、感覚になっていく。

河川敷の殺人事件。沖縄の米軍による強姦殺人事件。著名であろうが、起きる覚せい剤の薬物事件や強姦傷害事件…。浮遊する身体は、犯罪への敷居を低くし、被害に遭う人々の身体性=尊厳を傷つけてやむことない。

ささやかな、目立たない取り組みだと思う人もいるだろう。だが、ぼくは身体に目を向け、それが家庭や地域、社会、もっといえば国、世界の回復への糸口のひとつなのだと確信して、疑わない。

先日、その小さな挑戦がスタートした。