秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

月をめでる

これからの季節、月が美しくなる。

ぼくは快晴の夜に浮かぶ月よりもやや雲間にある月が好きだ。透き通る、おだやかな空気の夜。ほんのりとたなびく雲のはぎれが月の光を受けて、青白く漂う向こうに、凛と浮かぶ月だ。

この間、何かの話の流れで月の満ち欠けの話になった。

ぼくらの星は、太陽の引力と月の引力のバランスの上に成り立っている。生命が生まれ、生きられる環境が成り立っている。太陽と地球の距離がこの距離でなければ、月と地球の距離がこの距離でなければ、ぼくらはみなここに存在することすらできなかった…。

潮の満ち引き、女性の体調…いのちが生まれ、育まれる力の後ろに月の力がある。古代、人々はいのちと自然の不思議に畏怖して、月を基本とする陰暦で暮らしていた。

太陽暦が登場したのは、古代ローマ帝国時代のことで、天文学が太陽系の中心に太陽があるらしいことを知ってからのことだ。

ぼくらは、日々の生活の多くを太陽の光に包まれる、包まれないとしても太陽がもたらす昼の時間を中心として生きている。そこでは、社会性や世間といわれる常識が重要視され、建前、決まりといったことが大きな位置を占める。

仮にそうではなかったとしても、白日に人々をさらす時間では、見栄と体裁、虚栄心や競争心が世間の目と常識といったものを優先させ、あからさまになることを怖れて、欺瞞も偽善も、ごまかしもウソもつかせる。みなによく思われるための演技もする。

だが、人はそれだけで生きられるものではない。

だから、たそがれから夜、そして深夜から未明の時間がある。眠りと夢の時間がある。そこにあるのは、本能的であり、感情であり、夢想であり、妄想だ。常識や建前、演技からは遠い自分だ。だからこそある、人の真実の姿の断片だ。

ぼくらは自分の弱さやもろさを人に知られたくない、自分の邪さや駄目さを隠したいと思うけれど、それもあるのが人なのだと夜と月は教え、そしてときに、ぼくらをいやしてくれているのだ。

ミサイルがくるぞーと、たわいのない避難訓練や恐怖をあおるのは、それをしておかないと太陽のもと、白日にされるものが多いからだろう。強行に、圧力を圧力をと叫ぶのは、競争心や虚栄心がいわせているだけで、国民の安全を本当に守る道では決してない。

あなたが怖れるように、相手も怖れる。あなたが競争心をむき出しにするように、相手もむき出しにする。そこに何の解決策もないことはこれまでが証明している。

ちょっと月をみつめ、月をめでて、自分の弱さ、自分の意気地なさ、男らしくもなく、泣きべそな自分をみつめると世界は違ってみえて、世界を変えるために大事なヒントも浮かんでくる。