秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

互いの努力と欲望

数年前の日本アカデミー賞作品賞に「舟を編む」があった。

その中で、コニュニケ―ション能力が豊かではない不器用な青年が、ぼくは人の気持ちがわからないから、仕事で人とうまくやっていけるかどうか自信がない…といったことを下宿先の大家さんに語る。

すると、大家さんが、「なにいっての。そんなの当たり前じゃない。わかんないから、話すんでしょ? わかんないから、自分から声かけんでしょ? わかんないから、もっと知ろうとすんでしょ?」と諭す場面がある。

確かに。会話することは大事だ。積極的に声をかけることも大切だ。だが、会話するだけで、分かり合い、通じ合える保証はどこにもない。それが返って、通信し合えないという孤独を痛感させることもある。

まして、SNSやメールで直接会わなくても他人と連絡が簡単にとれるようになると、それ用のコミュニケーション言語、会話のシキタリみたいなものができあがって、それを使いこなせないと、そこでも通信し合えないことが起きる。

そこには、テクニックみたいなものや必要以上の繊細さが必要になってしまった。それが日常会話までも侵食している…と感じるのはぼくだけだろうか。

要は、だれかれとなく、臆病になり、さらっとしたひっかかりのない会話でないといけないような気分が広がっている。にぎわいでの会話は得意だけれど、弱さやもろさ、不完全さ、思いを分かちあえる対話が少なくなったような気がするのさ。

しっかり向き合って、深い話、時には、議論をすることも少なくなっているんじゃないだろうか。

話をしても、相手のことがわからない、自分のことがわかってもらえないというのは、人を寂しくもさせるし、虚しくもさせる。

けれど、不明なこと、不完全なこと、欠落していることが普通なのじゃないかとぼくは思う。

意気盛んな若い頃は、どこかで完全さ、通信の完璧さを信じて、そんなふうには考えられなかったけれど…

不明で、よくわからない、そのために、満たされないものがあるから、人は人に、引いては、よその地域、よその国、よその世界を知りたい、つながりたいと思えるのだ。

最初から、不明であること、すぐに理解できないこと、それによって、それはおかしいと裁くようなことをしていたら、前へは進めない。

不安や心配、場合によっては、傷つく危険を感じるだろうが、その先にあるかもしれない、つながり合えたときの感動を期待した方が、もしかしたら、いいかもしれない。

いまぼくらの社会や国、世界には、臆病さが広がっている。先に裁きをし、つながり合えたときの感動なんてありはしないと、つながるためではなく、こうあるべきだばかりを押し付けようとしているように思える。

映画なんて、演劇なんてやったきたぼくは、いい作品づくりのために、こうあるべきだという理論や信念は持つが、その描こうとする世界をよりいいものにしてくれるのは、ぼくとはまったく違うところにいる俳優であったり、スタッフであったりするのだ。

正義や正解のための理屈も必要だが、あれ、それもありか…と気づき、だから、もっと知りたいという欲求を持つことが、いまのぼくらには必要なのだ。

押し付ける欲望ではなく、つながろうとする欲望。それはきっと、互いにあるものだと、臆病さを乗り越える互いの努力が。