秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

あうんの呼吸と知らない素振り

初対面の場合は一層だが、親しい関係の他人であっても、あるいは家族のように頻繁に顔を合わせる人間同士でも

 

人は常に、人の素振りに目をやっている。

 

相手はどのような人なのか、何を考えているのか…。言葉にはならない、素振りから、その人の資質や性分、いまの気分まで人は知ろうとし、また相手も知ろうとしている。

よく知る者であれば、自分がこれまで知っているその人である確認をとろうと、いつもと変わらぬ素振りを示しているかを探っている。そのとき、その瞬間の気分や様子を知るために。


素振りをいかに、セリフ回しやちょっとした所作、ふるまいの中に組み込めるか。しかも、違和感なく。じつは、芝居の演技にとって大切はなものは、そこにある。

 

ぼくは、舞台でも映画でも、演技の余剰、過剰を役者には特に諫める。理論としてあるのは、主に世阿弥の『花伝書』とモスクワ芸術座のリアリズム演劇を確立した、演出家スタニフラフスキー『俳優修業』から得たものだが、舞台の演出、映画の監督の現場、自分の仕事以外の舞台、映画にふれてきた経験やそこから学んで得たものも大きい。

 

余剰や過剰な素振りをぼくが強く諫めるのは、明確にそうだとわかる素振りを人は普段、決してしないからだ。

意識したしぐさ、所作としてではなく、無意識で、生理的なふるまいこそが、素振りであり、年齢にかかわらず、才能豊かな俳優は、こちらで細かく指示をしなくても、あるいは、指示をしたとしても、わずかな修正でそれができる。

まさに、あうんの呼吸で、少しのやりとりや「そうじゃない」「そっちじゃありません」とぼくが短く指摘するだけで、見事にこちらの求めに応えてくれる。


たとえば、武道がわかりやすい。

 

対戦する相手の息遣い、手や指の動き、足の運び、目の動き…といったわずかな所作から相手がどう動くかを読む。それは観察力、推察力、読心力だ。人が人と向き合うとき、それがなくては、双方にいいコミュニケーションは生まれない。相手の考えていること、望んでいることが見えないと人の会話はぎくしゃくする。

人は言葉だけでは伝えられない、あるいは、言葉にできない何かを素振りという信号で発信し、心の奥深いところで、それを受け止めてもらいたいと願っているのだ。

 

それを読み取ることを普段から意識していないと、自らが演技としてそれを表現しようとしたとき、うまく形にできないのだ。


ところが、いまぼくらは、この素振りに知らんふりをすることに慣れて来ている。あるいは、素振りの信号を読み取れない人が増大している。


理由はある。ひとつは、自分の素振りは読み取ってほしいが、人の素振りを読み取る力がない。成育歴の中、学校や地域教育の中で、それを教え、訓練させる人、場がなくなっている。

 

また、ひとつは、現実の問題や課題、自分が向き合わなければいかない現実を曖昧にしたいからだ。人は困難や苦難に直面すると、不安になる。その不安から逃れるために、意識も思考も撤退してしまうという心理的習性がある。

いじめ、不登校、ひきこもり、夫婦の不和など、不協和音の鳴っている家族がそうであるように。コロナ禍以前からだが、コロナ禍の中、ますます増えているシングルマザーや子ども、単身女性の貧困や生活苦といった社会的問題もそうであるように。

あるいは、機能しない政治や手前勝手な経済政策、コロナ対策の稚拙さといったことも、いまこの国が直面しているあらゆる課題を曖昧にしているように。

疑問視や直視を避け、知らない素振りをするテクニックとごまかしだけが巧みになっている。問題には知らない素振りをしながら、そこだけは、みんながあうんの呼吸で素振りを読み合っている。

「日本人はよく怒りませんね。中国だったら、とうに暴動が起きていますよ」。いまの話ではない。20年以上前に友人の中国人夫妻に言われた言葉だ。


素振りが読めなくなったぼくら日本人の悲しい現実だ。決して、美徳ではない。