秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

無力な公式語

ぼくは道を歩いていても、コインランドリーにいても、だれかとお茶をしていても、行き交う人の姿や周囲の店や建物にひどく心を奪われてしまう。

以前、ある人と歩いていたら、「ねぇ。私の話、聞いている?」といわれ、「ああ、聞いている…」と答えのだけれど、どうも上の空だったらしく、「だって、いまも、あのイタメシ屋、うまそうだなーとか。あの人、おもしれぇーとか、私が話してるのに、それと関係ないほかのこと、すぐいうじゃない」と言い返されたことがある。

確かに。演出や監督といった仕事柄というわけでもないのだけれど、どうも周囲の動きや風景が気になって、だれかと同伴しながら歩いていたり、お茶してるときに、何かを話されても、その会話より、そちらの方に心が向いてしまう瞬間があるのは事実だ。

子どもの頃から友人たちにも、会話の途中で、よくいわれた。「おい。おまえ、何考えようとや?」。そして、はっとなる。ぼくは、度々、友人の輪の中で、フリーズしていたw

このところの世界情勢の海外報道や国内世間を二分する意見の対立報道を見ていても、ぼくは、そこでのやりとり以上に映像に映し出されるその顔つきや口調、ちょっとしたしぐさがやたら気になる。

テレビというのは、じつに正直で、映された人間の内実をさらけ出すところがある。正確には、カメラを通すとだけれど。

本当は、ファインダーを通さなくても、その人の真実、本質は、所作や言動から相当深く察知することはできるのだが、ありのままに人を映し出すだけの映像はすべてを相対化するため、舞台演出家や映画監督のような、微細にこだわり、ある意味冷徹な視点をだれもが共有できるのだ。

演劇では、身体性というのだけれど、これは実に正直。

プーチン、トランプ両大統領しかり。それぞれを支持する人、しない人しかり。わが国の総理やその周辺の答弁者を観ても、与野党の質問者を観ても、この身体性は隠し切れない。この人がどういう人なのかをじつにストレートに伝えている。

だが、ぼくらはそこでの言語ゲームにばかり気を取られ、屁理屈や理論めいた言い回し、回りくどい官僚用語に翻弄されて、身体性に目を向けようしない。

ぼくらは、いま言葉に追われているのだ。言葉に追われ、実態を観よう、知ろうとしない。その能力もぼくらは希薄になっている。

当事者たちも言葉に追われている。追われながら、身体が綻びを出しても、がんばっている。

がんばっているのは、きっと何かに強く執着しているか、自分を等身大以上に演技しようとしているからだろう。つまりは、そこに謙虚さや反省や自省、内省はない。

政治やマスコミの言語ゲームのやりとりは、意味の解釈や言語のパズルの謎解きに終始して、そのつばぜり合いを繰り返すだけのことだ。公式語は、世界を変える力にもならなければ、真実をあぶりだす力もない。

逆を言えば、プーチン大統領に憧れているトランプ大統領プーチン、トランプ両大統領に好かれたい安倍総理。この人たちに共通なのは、法や制度を基にする公式語の弱さもよく知っている人たちなのだろう。

だから、自分たちの好きなように、法や制度を簡単に書き換えてしまう。そして、そのことへの自戒や反省は当然ない。じつにアナキーw

共通なのは、このアナキストたち、景気が命。言葉に追われ、治世のミスがあっても、多くの支持をえられているのは、一重に偏った経済政策で失速を先送りできているからだ。半数の国民は痛い目に遭っているけれど。

先送りできなくなれば、当然、この人たちがそのために選ぶ選択は決まっている。お手本は、プーチン大統領がすでに国内、国外で示してくれている。