ぼくの選択
物事が終わりを告げるのは、そして、良しきにつけ、悪しきにつけ、変わっていくのは…
ある日突然、訪れるのでない。
すべて、日々の積み重ねと、日々のぼくらひとりひとりの生き方と小さな選択の積み重ねの中にある。
だれにでも経験があることだが、あのとき、あの瞬間、自分の選択が違っていたら…と振り返るときがある。だが、一度選択してしまえば、その先に人生を積み上げていくしかない。その中で、自分の生きる道を探すしか方法はない。
後戻りできないのがぼくらの道だ。だが、ぼくもだけれど、多くの人は、その選択をどこかで怖れがちだ。
その怖れが人に選択をあいまいにさせ、選択をためらわせる。そして、後出しじゃんけんのような、卑怯な選択をすることで、少しでも安全な道を歩もうとする。
その怖れが人に選択をあいまいにさせ、選択をためらわせる。そして、後出しじゃんけんのような、卑怯な選択をすることで、少しでも安全な道を歩もうとする。
大学の教育心理学の講義のときだ。青春は選択の時代なのだと教えられた。若ければ若いほど、選択肢は多い。迷いも多くなる。そのとき、楽な道より、苦しい道を選択した方がいい…そう教えられた。
それが普遍的であるかどうかは知らない。人それぞれだろう。
しかし、楽な道は安直さや安易さ、打算や計算が伴う。それに、その道を自分の手で切り開いたことにはならない。計算ずくだというとは、だれかの力やなにかの影響力を当てにしてのことだからだ。
人はだれだって、楽しい方がいいだろう。楽な方がいいだろう。得をしたり、虚栄心や名誉欲を満たされた方がいいだろう。なによりも、安全な方がいいだろう。波風立てるより、平穏で、周囲の価値感に応えられるものがいいだろう。
だが、それは所詮自分という個人の、自分だけの尺度での選択でしかない。そして、自分の尺度のようで、じつは、周囲におもねた結果の選択なんじゃないだろうか…
だが、それは所詮自分という個人の、自分だけの尺度での選択でしかない。そして、自分の尺度のようで、じつは、周囲におもねた結果の選択なんじゃないだろうか…
ぼくは、小学生の頃からいろいろな選択を余儀なくされてきた。子どもの頃から癖の強い…簡単にいえば、わがままな奴で、偏屈で、でしゃばりだったのでw、人もいなくなれば、人から選択をゆだねられることが多かったせいだろう。
けれど、それは後々、とてもよかったことだと感じてる。おかげで、いつもたくさんの壁や無理解や否定、そして厳しい生活がつきまといがちだったけれど、それがあったおかげで、ぼくは、未熟なぼくを鍛えてもらったし、うまくいかないこと、伝わらないことで、不満を持ったり、不満をもつ自分を未熟だと感じたりすることができた。
今年は、世界中で、いろいろな選択があった。
けれど、それは後々、とてもよかったことだと感じてる。おかげで、いつもたくさんの壁や無理解や否定、そして厳しい生活がつきまといがちだったけれど、それがあったおかげで、ぼくは、未熟なぼくを鍛えてもらったし、うまくいかないこと、伝わらないことで、不満を持ったり、不満をもつ自分を未熟だと感じたりすることができた。
今年は、世界中で、いろいろな選択があった。
ぼくらの国でも、ぼくら自身の選択だけとはいえないけれど、政治や経済、生活の中でいろいろな選択がされたきた。
そんなの関係ないという人も多いだろう。関係あるけれど、それどころではないという自分の選択でいっぱいの人もいただろう。安定、安全のために選択はよき結果だという人もいるだろう。
けれど、ぼくは自分や自分の周囲の人の生活や、あるいはぼくの知る福島や地方や国のこれから、世界のこれからを少しでもよりいい道に歩むための、ぼくなりに一番いい選択を、自らの手で選んでいきたいと思う。
「ぼくなりに」というのは、謙遜だw
ぼくの選択が正しいとはいわない。けれど、より多くの人、いま困難にある人、打算や計算もなく、選択すら十分にできない人…選択の声をあげても、それを受け止めてもらえない人たちがいることを最初にして、選択する選択こそ、大事なのだと思っている。
選択の年だった、2016年がもうすぐ終わる。その先に、何時間後かに次の2017年がなにがしかの結果を姿にして、ぼくらの前に現れてくるだろう。
選択は後戻りできないが、ぼくは、それに、明日から、また立ち向かう。自分の弱さにふりまわされながら、伝わらない、形にできないくやしさと寂しさをかみしめながら、それでも伝えよう、形にしようと走り続ける。道を探しながら…
選択は後戻りできないが、ぼくは、それに、明日から、また立ち向かう。自分の弱さにふりまわされながら、伝わらない、形にできないくやしさと寂しさをかみしめながら、それでも伝えよう、形にしようと走り続ける。道を探しながら…
それが、ぼくの変わらない、選択だ。