小さな島国の小さな人たち
Our nation is small island, but We are not small men.
かって、あるイギリス首相がドイツとの戦争の折り、国民に投げかけた言葉らしい。
主人公の外交官は、沖縄は、まさにこの比喩の島だと語るのだが、当時の屋良沖縄主席は、それにこう応える。
「本土の人たちは、戦前も、いまも、沖縄を小さな島だとしか考えていないのです…自分たちより小さなものとしか考えていないのです」
あの沖縄返還のとき、ぼくは高校3年生だった。
それがわかるのは、ぼくが少年時代、まだ米軍の基地の街であった福岡にいたからだ。朝鮮戦争時、極東の安全保障の要は、小倉基地(小倉空港)と板付基地(福岡空港)だった。決して、沖縄ではなかった。その残像がぼくの少年時代には、現実のものして、福岡の至るところにあったのだ。
だが、小倉も福岡も、農地を強制撤収したり、街の中心部に基地の街をつくることも難しい。北九州地域にあった米軍基地は、いずれも大規模なものはなく、小規模なものが点在して市内にあったのだ。
もちろん、福岡県内でも強制撤収された土地はある。しかし、それは沖縄の比ではない。
小さい人たちの島だから、いいだろう。本土では、そうはいかない。激烈な抵抗が大衆から起きる。小さな、自分たちより教育や生活が劣っているであろう、地域ならば容認するだろう…。逼迫していれば受け入れるだろう…。
沖縄は琉球支配の昔から、そう思われ、それゆえの負担と過酷、悲惨を経験してきている。
だが、果たして、本当に、それは沖縄だけのものだろうか。長崎、広島は…。福島への視線は…。いや、被災や被爆といったことでなく、過疎や地域経済が成り立たない場所やそこに生きる人たちのことすら、そうなのではないだろうか。
原発が都市になく、疲弊している地方や困窮してきる地域に置かれるのはどうしてなのか。それは、都市や街からみたら、小さな人たち、小さなものと考えられているからじゃないんだろうか。
日本国内のことだけでなく、日本以外のアジアの人々への認識は…。
どこかで、ぼくらは、それらすべてを小さなもの、人、場所と考えてはいないだろうか。だからこそ、沖縄に無関心なのではないか。広島、長崎の願う核廃絶に、安全保障などという理屈が平気でいえるのではないか。
その背後には、自分たちの暮らしの場所さえ、安泰ならば…その思いが透けている。
そう思う人、あるいは、まったく関心もなく、それすら思えず、何も感じない人…そうした人にあふれた本土、国というのは、それこそ、Small IslandのSmall Menの国でしかない。