秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

沖縄パラドックス

前沖縄アメリカ総領事、ケビン・メア氏(国務省日本部長)の発言が問題になっている。
 
沖縄は「ゆすりの名人」「怠惰でゴーヤも育てられない」。普天間は、「福岡空港伊丹空港と同じ」。特段、普天間だけがキケンなわけではない。「それは、沖縄の人間は知っている」…といった発言。
 
当然ながら、当時者の沖縄県民、沖縄県議会、普天間基地の地元はいち早く、謝罪要求を出した。今朝のマスコミも、こぞって、この問題を取り上げ批判した。
 
しかし、マスコミの論調にひとつの特徴があったことに気づいただろうか。当然ながら、これまで米軍基地を担ってきた沖縄の悲惨について同情的な視点はある。それと同時に、日本人や日本の国までが批判されているとしか思えないといった論調だ。
 
それを見聞きして、逆に、憤りを感じたのは、オレだけだろうか…。
 
ここには、二つのパラドックス潜んでいる。
 
そもそも、沖縄は本土にとって、同情の対象でしかないのか…。次に、あなたたちは、アメリカの高官が日本国の一部である沖縄を批判され、自分たち日本人「までも」が非難されていると感じている…というパラドックスだ。
 
ここに見られる、本土の人々が沖縄を考えるときに陥るパラドックスは、政権交代時に鳩山が全国知事会で、沖縄の基地負担を軽減するために、県外移設を受け入れてくれる自治体はないか…と問うたとき、手を挙げた自治体が、大阪、橋本知事しかなかったということに如実に現れている。
 
どの自治体も、わが事として沖縄の現実を引き受けようとはしてこなかった。それは、戦中、戦後、そして、現在に至るまで。それでいながら、沖縄で何事かあると「われわれ日本人の問題」とアリバイ、ポーズを示す。責任をとれない人間がよくやる姑息な手だ…と思うのは、オレのひねくれ根性だろうか。
 
他者への同情を全面的に否定はしない。しかし、こと沖縄の問題に関しては、日本国民共有の問題としてとらえる姿勢はまったくないといって等しい。
 
戦後65年、オレたち日本人は、一貫して沖縄に同情「しか」してこなかった。同情することで、自分たちの問題、当時者の問題として向き合うことを避けてきた。
 
それでいながら、沖縄で理不尽な事件や事故、不条理な出来事が起きると、一斉にアメリカを批判してきた。いや、厳密に言えば、アメリカではない。事件、事故の要因、当時者である海兵隊員やパイロットを批判し、それで幕引きをしてきたのだ。
 
今回も当時者であるケビン・メアに批判を集中する。しかし、その批判は沖縄の現実から遠く、自分たちは安全な場所にいながら、沖縄に「同情」を寄せるだけで、日米安保の現実も、基地問題も引き受けてこようとしなった、日本人そのものに向けられていることに、この国の人々は気づいていない。
 
長く続く、沖縄差別。ケビン・メアがいった言葉は、実は、本土の人間たちが沖縄及び、沖縄県民に対して投げてきた言葉ではなかったのか。就職差別の現実の中で、オレは何度も、沖縄県民は気候が温かいから怠惰という偏見の言葉を聞いたことがある。
 
特別措置法によって、国からじゃぶじゃぶ金をもらい、労働意欲が希薄という言葉も何度も耳にした。当然ながら、アメリカンからではない、ジャパニーズからだ。
 
マスコミや本土の人々に広がる、怒りは、自分たちが、歴史的に抱き続けてきた沖縄差別の現実を映し絵のように見ているからだ。自分たち本土の人間が長く見捨ててきた沖縄の問題が身勝手な同情では救いきれない現実を知りながら、それと向き会おうとしていない、自分たちを見るからだ…とオレは思う。
 
もういい加減、そこに気づき、自分の国の安全保障をどうするのか。対アメリカとの関係をひとり沖縄に押し付けないために、日本人としてどうあるべきなのか。
 
沖縄パラドックスを乗り越えて、それを考えなけえば、日本の未来はない。