秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

公を取り戻す涙

ぼくらの社会は、もうずいぶん前から…おそらく、20年以上前からだけど、公(おおやけ)の力が途轍もなく、希薄になっている。

少子高齢化がもっとも大きな要因なのだけれど、それらへの対策が現実にそぐわないばかりか、公の希薄化という視点で取り組まれてこなかった。

それが一層、公の力を弱くしてしまっている。

公というのは、公的なもののことだ。他者、不特定のだれかとの関係を維持するためにあるもの。それを支えるのが公共意識とか、公民意識といったものだ。

当たり前のことのような社会常識といわれるもの。それを支える基盤に公共、公民意識がある。

そして、これを形成する基本にあるのが、家庭や地域の教育力だ。いいかえれば、この20年以上の歳月の中で、ぼくらの社会は、その力をどんどん希薄にしてきた。

希薄になったのは、個々の生活欲求が多様になり、個衆化し、人々がそれぞれの弧に閉じるようになったことがある。だが、これは社会が成熟するとどのような体制の国でも起きることだ。

ひとつになれない代替えに、サッカーや野球といったスポーツ応援でひとつになる、ハロウィンやクリスマスにバカ騒ぎするといったことが起きる。趣味嗜好の人だけの集まり、ナントカパーティが盛んになる。チョイボラが人気を呼ぶ…。公の希薄さをそこで補おうとする。

だが、個々の中に、前提となる家庭、地域教育、つまり、公共意識が欠落しているから、人が眉をひそめるような傍迷惑なことを平気でやる。

一番問題なのは、少子高齢化とこれに伴う人口減少。家庭が分断され、世代が分断され、家庭内が孤立化し、地域が分断される。これにより地域を維持することができなくなることだ。

地場産業や地域の零細ながら成立していた商業、工業も維持できなくなる。

雑多な人や地元の産業、商店や工場が身近にあることは、それ自体が次世代を含む、地域の人々の公的な教育の場にもなる。家庭は、地域を生きるための教育を注入され、地域は家庭を取り込むための地域教育の姿を摸索する。

それを制度を新たにすれば、設ければ、政治で解決できると考えているところに、大きな問題がある。

大切なのは、地域の扇の要(かなめ)、家庭の要になるものを見直すことじゃないだろうか。

ぼくがかかわっている福島の地域再生や新生に取り組む場所では、あの震災後も必死で守ろう、次世代へつなごうとしている伝統芸能があった。ぼくは、その姿を見て、伝統芸能や地域文化が地域をつくる要、家庭を地域に巻き込む要にあると改めて実感した。

きっと、生産性や豊かさといった経済を先にして考えれば、伝統芸能なんて、一文にもならないと人は思うだろう。それより産業誘致をという人もいるかもしれない。だが、これまで地域を支えてきたもの、地域の教育の基盤となっていたもの。それをないがしろにしてしまえば、地域そのものが成立しなくなる。

とくに、伝統芸能や文化は、地域を生きる人々が世代を越え、身体性として共有していく。身体につくられた公、それが伝統芸能や文化といってもいい。

いま政治の世界で誠に常識、公共意識のないことが当たり前のように行われている。この国だけではない、世界の至るところにその姿はある。

公を維持する要たるべきものが、公ではなく、私事を優先させるための要に変わってしまった。そこに衆合する、群がれば、自分もトクをする。公などあったものではない。

いまの政治にかかわる人たちは、地元や地域に根をもっていない。言葉だけの謝罪や反省をする前に、生活者が自分たちの生活を次へ継承するために、範を示し、身体をもって、公としている伝統芸能に一から汗を流し、年長者たちから叱責されてみてはどうだろう。

一文にもならないことに、公を育てる力があることに気づけるかもしれない。そのとき、涙を流すほどの反省が生まれるはずだ。