秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

のっかろう

「Man of  La Manchaラ・マンチャの男」のセリフで好きな言葉がいくつかある。

「事実は真実の敵なり」…。

事実は、こうである…と、あたかもそれが真実であるかのように語られる言葉には、多くのウソやまやかしがある。そこには、真実から人々の目を背けさせ、目をそらさせ、真実を覆い隠そうとするものが溢れている。

あるいは、事実だけをみて、すべてがわかったような気になり、事実の向こうにある、真実を知ろうとすることを忘れさせる。

事実を知っていることで、そのすべてがわかったように思うのは、人の傲慢さであり、無知さであり、不勉強さの表れでしかない。真実は、噂話のような事実の向こうにあるものだ。

「もっとも憎むべき狂気とは、あるがままの人生にただ折り合いをつけて あるべきものために闘わないことだ」…

あるがままの人生のすべてに感謝する…それはすてきなことだ。

だが、だからといって、力や権威、地位の上下や有名無名の力学に支配され、迎合し、人を蔑み、組織の過ちや愚かさ、集団のあり方の偏狭さに目をつぶり、明らかにおかしいことをおかしくないといえてしまうのは、思えてしまうのは、感謝という言葉にすり替えて、自らの気づきの足りなさを知ろうともせず、身の保身や己の安泰、利益だけを考えていることに過ぎない。

こうあるべき。その姿は何なのかを求めて、あえて、いうべきことをいい、伝えるべきことを伝え、誤りを指摘する…それこそが、日ごろの感謝に報いることだ。

だが、いまいった二つのことにこだわり、それを実践しようとすれば、このラ・マンチャの男のように、狂人呼ばわりされることもあれば、愚かな奴と笑われるだろう。面倒くさい人間とはぶかれるだろう。

つまずけば、それみたことかと無視され、追い打ちをかけるような罵声を浴びるだろう。

それがいやで多くの人が、見果てぬ夢を追いかけることより、不満があっても、おかしいなと思っても、いまの暮らしを守ることを大事にし、まちがいを糾すよりも、まちがいを容認する側についてしまう。決して、あるべき姿のために闘おうとはしない。

ぼくもきれい事ではなく、他人事ではなく、そのひとりかもしれない。ぼく自身にも気づきは足りないだろう。

だが、そうしたぼくらひとりひとりのちょっとした勇気のなさ、意気地のなさが、いまのつまない社会や国、世界の姿に加担していることになる…

政治に受け皿がないとマスコミも多くの人もいう。いうのはだれにでもできる。そう思うのなら、自らそれをつくっていこう、みんなでつくっていこう…そうは考えない。またも、だれかがつくるブームや先導者にのっかろうとしか考えず、自らの行動の選択はしない。