秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

同じにしか見えない

いまは亡き、名戯曲家で小説家の井上ひさし氏。

井上ひさしをテレビの構成作家から、一躍小説家にした名作に『モッキンポット牧師の後始末』という作品がある。

昭和20年代に井上ひさしが通っていた上智大学文学部仏文科の指導教授を題材にした自伝的小説だ。井上ひさしらしく抱腹絶倒のコメディなのだが、折々にドキリとさせる人の生き方の真が織り込まれている。

そのひとつに、牧師が色町に出入りしていることを井上ひさしたち悪童の学生たちが聞きつけ、嬉しそうに噂話をする一節がある。「先生も牧師とはいえ、やはり、一人の男じゃないか」…。

いつも叱られてばかりの学生たちは、どこかほっとし、牧師を共犯者のように思い、先生もそうでしょう?と、牧師に感情的にしな垂れかかる。すると、牧師は、「自分の尺度でしか他人を測れない、哀れな人たちだ」と一蹴する。

牧師は、色町の女性の苦しみに耳を傾け、その苦しみをいやすために、通っていたのだ。その事実を後に知った学生たちは、恥ずかしくなり、牧師の言葉に二の句がつけなくなる。

ぼくらは、人を簡単に値踏みし、たいして人や人生をわかりもしないのに、そんなものだろうとわかったような気になる。人の心の奥深いところを見ようとしないで、言葉や態度だけで、これだと決めつける。

自分がそうであるように、人も完璧ではない。だが、人それぞれにその人にとっての思い、願い、切実がある。なにかにこだわり、行動し、実践していれば、なお、それらは深く、切実だ。

そして、深く切実な人ほど、その心の奥にあるものを声高に人に伝えようとはしない。黙々と、ただひらすら、自分が信じる道を人の評価にかかわりなく、歩み続けるものだ。

外野席にいて、ただ批評し、眺める人。内野席にいるくせに、自分はグラウンドにいて闘っていると勘違いしている人。グラウンドにいてもグラウンドにいるだけで満足し、客席にいる不特定多数の観衆の顔の見えない人。

自分の尺度や評価がすべてだとしか考えられない人は、結局、そういう人たちだ。

今日の籠池氏の証人喚問の与党の追求を見ていて、ぼくはそんなことを考えていた。

ぼくは、籠池氏の教育理念にはまったく同調しないし、彼の証言のすべてが真実だとも思わない。だが、同時に、与党や中央官僚の発言もすべてが真実だとも思っていないし、彼らの政治理念や手法にも賛同していない。

ぼくにはいずれも同じにしか見えない。

ただひとつだけ、左翼や過激派の残党のようにいわれているぼくは、じつは、三島由紀夫の支持者であり、2.26事件の賛同者であり、天皇家に敬意を持ち、この国の政治から天皇が失われたことが、いまのようなアメリカ迎合主義の手前勝手な政治をまかり通らせている背景にあると確信している人間だ。

左翼や右翼、左派や保守の脆弱さは信じないが、人の侠気と矜持だけは信じている。

同じようにみえた、調子のいい人たちだが、籠池氏には、彼なりの侠気と彼なりの矜持ははっきり見て取れた。あくまでも、「彼なりの」ではある。

まちがいなく、与党の質問者にない、信念が彼にはある。それは歪んだ信念であれ、詭弁に満ちたそれであれ、その一点において、与党は惨敗している。