秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

病気の治療

ラ・マンチャの男」っていうミュージカルをぼくが大好きだって話は、きみにも以前したことがあったよね。

その中に、「事実の中に、真実はない。事実の向こうにこそ、真実があるのだ」というドン・キホーテの有名なせりふがある。

事実だけを受け入れていては、真実が見えない。それは、アートにおいても、ジャーナリズムにおいても、あるいは、ぼくらの生活や仕事の中においても、いえることじゃないだろうか。

事実と情報は違う。ぼくらが事実と思っていることの多くは、単なる情報だ。しかも、情報は、それを伝える人、媒体、発信している存在によって、内容の濃度の浅薄、深度の相違がある。

違いはあってもいい。だけど、中には、伝えられない情報や伝えることを意図して削除される情報だってある。意図しなくても、人々の話題を集める情報に時間と労力を割けば、そのために、埋もれてしまう情報だってある。それらは、ぼくらの前に出現しない。だから、事実と情報を混同していてはいけなんだよ。

事実が見えないと、その向こうにある、本当はどうなのか、本当は何なのかの真実にはたどりつけない。

ぼくらは、だから、情報に対して、受け身ではなく、主体的でなくちゃいけない。伝えられていること、いわれたことを鵜呑みにするのではなく、もう一度、自分の目を複眼にして、見つめなおし、角度を変えて、再考しなくてはいけなんだ。

何かにコントロールされたり、知らないうちに、勝手に自分の考えや意見を支配されないためにね。リテラシー教育が重要なことは、優秀な人材を育てる上でも重要な要件だと、世界の先進国では自明のことだ。

たとえば、医療において、いまはセカンドオピニオンインフォームドコンセントが当たり前のように、医師にすべてを預けるのではなく、患者が主体的に病気と向き合うために複眼の視点、情報の開示が不可欠になっている。共に、病気という課題に協働するためさ。

ぼくらの社会には、いま、これまでの経験やそれに基づく予測では対応できない問題が起きている。規模は大きく、病巣も多様だ。なのに、それを素通りして、何事もないように、課題にはうまく対応しているような事実だけを羅列する薄っぺらな情報がマスコミに流れている。

あるいは、人々の情感や心情に訴えるだけで、冷静な目で事象をとらえ、真実にたどりつくための意見を明確に語ることを避けるようになっている。

先日、ある社会奉仕団体の方と会合を持ったのだけれど、そこで、この国、世界に広がる貧困や家庭の崩壊の問題が話題になった。その団体は、生活や病気に困窮する人々の支援を100年以上も続けている。

政治の手が行き届かない人、社会の目が向けられない人たち、そこに、自ら飛び込み、代償を求めない福祉事業を続けてきた。だから、その深刻さを強く実感している。

かつてはだれもがその活動を知っていた。だけど、この数十年の間に、その取り組みを知らないばかりか、そうした献身的な社会奉仕団体があることすら知らない人が増えている。

それは、ぼくら自身が、社会から取り残されている人、社会の目が向けられず、困難にある人たちの姿を社会から消しているからじゃないのだろうか。

マスコミがそうした問題を取り上げる頻度が少なくなっているように、ぼくらの社会そのものが臭いものには蓋をしろが当たり前になっているからではないだろうか。

明るく陽気で、前向きで、うまくいっていて、未来も問題はない…それが大好きな社会になってしまった。
ほんとは、楽観視できない現実があっても、社会の暗部を表に出さいように、平穏を装う。真実が暴かれることを恐れるように。

社会奉仕の彼らのような団体が人々の視線から消えているのは、その取り組みがクローズアップされると、包み隠そうとしている社会の現実、そこにある真実までもがあぶり出されるからだ。

危うさはないかのようなふるまいを当然とする社会、人々の安全や安心を守るという言葉の裏で人々の権利や自由を縛る社会、特権や権益のおかしさを指摘できない社会…。それでは、社会に広がっている病気の治療などできはしない。

ぼくは、その社会奉仕団体の目立たず、多くを語らないけれど、強い意志と熱意をもって、本当のことを本当にやろうとしている姿にとても心を動かされた。

人も社会も、同じだ。本当のことを本当にやる。そのために、本当のことを知り、学ぶ。そこからしか、病気の治療の道は見えてこない。