秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

やっつける

正義という言葉はじつにおもしろい。公の顔をしていながら、じつは、とても私的で。ペロリと剥がせるほど無知で。かつ、剥がしたそばから、厚顔無恥さがギラギラと脂切って表に出てくる。

何よりの証拠に、表の正義、見せかけの正義、偽りの正義…云々。正義という言葉には、逆説の定義や否定の装飾語句がつきものだ。きみはそう思わないかい?

そもそも正義というもの自体、その正体が怪しい。

正義、正義と口にする人で、普遍的な価値や基準をもとに、理知的にそれを語る人はほぼいない。思い込みや思い入れ、偏狭で偏重な人ほど、正義と独善(ひとりよがり)をはき違えた、「正義」を言葉にしたがる。

物事を相対化してみることのできる理知的な人。つまり、物事の真相や真実を知ろうとする人、あるいは、それを少しでも実践しようとする人であれば、正義という心情的で、主観的で、あいまいな言葉は意図して避けるだろう。

言葉を選ぶことのできる知的な人は、論じることはあてっても自分の主張を正義という虚飾には乗せない。

知的な人は知っているからだ。現実を変えていく力、人々にとってよりよき社会、世界、その未来をつくっていく力。あるいは、人や社会、世界に貢献する力。その基準は、正義か否かにあるのではないことを。

だけど、ぼくらの社会は、いつからか、この「正義」が大好きになった。

自分の正義を証明するかのように、だれかを叩く、だれかをイケニエにする。自己責任とか、努力が足りないからだからとスポイルする。敵となるものをつくりあげ、設けることで、自分の主張や言動を「正義」に置き換える。

その姿は、まさに、そういう人の品格や品性をさらけ出し、主張や言動そのものが正義とは程遠いことだと示しているようなものだけれど、大衆は飢えたハイエナか、ピラニアのように、敵とされたものに、食らいつく。

いつか、いじめが生活の当たり前の、どこにでもあることになり、だれも、人を蹴落とすバッシングに痛みを感じなくなる。

敵探し、敵つぶし、犯人探し、犯人つぶしにやっきになり、そもそも、敵とは何なのか、なにが敵を生み出しているのか。事件、事故はなぜ起き、その背後にあるものは何なのかを深く検証も、精査も、それをもとに、反省も改善も改革もしない。

そのことで後世に残す、大きな大きな禍根や遺恨、憎悪や暴力を生むことも考えずに。

テロには屈しない。テロには毅然と対応する。そんな当たり前の正義、自らの責任を回避した「正義」を語る前に、テロルの季節をつくっているのは、何のか。なにがそうさせているか、考えようともしない。

テロを日常にし、テロを量産し、テロの根絶を困難にさせているのは、そんな世界を画一の価値、自分たちだけの「正義」にしようと身勝手な「正義」を押し付け、事件の現象だけを取りざたし、自らを省みることのない、「正義」だ。

どこかの首相が毎日のように、軽薄な野党非難を街頭で叫び、失政を隠し、政策意図をあやふやにし、聴衆から喝さいを受ける…ヘイトスピーチをしている連中とそれをはやしている無知な大衆とどこが違うのだろうか。

やっつける。それしかない「正義」は、いつでも言葉の暴力になる。それがまかり通る社会、世界が、あちこちに広がっている。