秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

あのね、あのね…

「あのね、あのね…」。彼女は、いつもぼくに何かを話そうとするとき、決まって、そういった。

何かすごくいいことがあったとき、すごくおもしろいことがあったとき…そして、すごく悲しいことがあったとき、どんなときでも、話す前には、そういった。ぼくが、どうした? なにかあった? うん? なに?と言葉にするのを期待するように…。

ぼくは、うれしそうに「あのね、あのね…」を言うときのキラキラした彼女の目の輝きや笑顔がとても好きだった。
悲しそうにそう言うとき、うつむき加減の伏し目がちな表情や涙をにじませた顔をとてもいとおしいと思った。

彼女はすごくおもしろがっていても、ぼくにはおもしろいと思えないこともあったけれど、爆笑してしまうような話がほとんどだった。ちょっとつらいことや悲しいときは、ぼくにできることは何だろうと幼くてもぼくは必死で受け止めようとした…

高校のとき、付き合っていた彼女の口癖。「あのね、あのね…」。子どももよく周囲の大人に何か知ってほしとき、わかってもらいたいとき、それを言う。

ぼくは思うのだけれど、だれもがこうしたい、ああしたい、こうありたい、こうしたいといういろいろな思いを持っている。聞いてほしい、わかってもらいたい、伝えたい…そんな気持ちや言葉を持っている。

だけど、ぼくらはいつからか、こうしたいのだから、そうしろよ…とか、ああしたいんだから、いうこと聞けよ…とか、相手にわかってほしんだという思いを表す「あのね、あのね…」を忘れてはいないだろうか…。

聞いて当然とか、わかろうとして当たり前とか考えているからだけど、そこにあるのは、自分のいってることに間違いや勘違い、誤りはないという傲慢さだ。

聞いてくれるだろうか、どうだろう…。でも、聞いてほしいんだ。「あのね、あのね…」には、そんな思いがあるような気がするのさ。

いま国会では、加計学園問題や共謀罪の審議をやっているけれど、答弁の言葉は紋切り型で、威圧的で、自分たちに間違いや誤りはないというばかりで、答弁にもならない質疑が続いている。

いまに始まったことではないけれど、どう考えても社会の常識を逸脱した非常識さが国会、政府の姿勢には当たり前になっているようにしか見えない。

やみくもに強弁したり、あからさまな辻褄合わせの答弁、わからなければいいだろう答弁をする前に、人が思う疑問や疑念に、どうして、きちんと正面から向き合おうとしないのだろう。それほどに、国民は愚かで無知だと考えているのか…。

こういう人たちには、彼女の「あのね、あのね…」なんて、ぼくのように心地よくは受け止められないだろうね、きっと。

でも、それは、ぼくら普通の、ごく当たり前に生きている国民のいまも、これからも、真剣に受け止めよう、聞かせてもらおう…という考えも姿勢もないことになるんじゃないだろか…。