秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

物語のはじまり

子どもの頃、青空に浮かぶ雲をみて、それが動物の姿や人の顔、姿に見えて、それを見続けることに、退屈もしなければ、飽きることもなかった…

天の川や月を仰ぎ、どんなに走っても、自分についてくる夜空の不思議に夢中になった…

子ども同士が集まると勝手に物語をつくり、物語の中で、ぼくらは遊んだ。親から「ご飯よ!」と中断されるまで、それにも、また、飽きることがなかった。

子どもの想像力は物凄くて、それは演劇そのものといっていいほどだ。

ありもしない物をあるように設定するし、実際には違うもの、ままごとのご飯のように、それを砂や別の何かで代用することもできる。無対象行動というのだけれど、物がなくてもあるという前提で芝居をする…子どもはそれを当然のようにやってしまう。

演劇は、あらかじめ共有された、ウソの中で、幻想を共にすることで成立する。それを子どもたちは当たり前のようにやってしまい、それを楽しむことができるのだ。

妄想や夢想…。それがないと物語はつくれないし、物語はだれかと共有しないとおもしろくない。形にできない。

演劇や映画、イベントといったことを生業にする多くの人間が、ぼくのようにその楽しさをあきらめきれないで歳だけ大人になって、そこにいる。

自分が考えた妄想や夢想、それが現実ではないという制約の中で、形にする。そこに喜びや感動、社会的な意義や使命を感じているはずだ。だから、自分が描く妄想や夢想…それを現実にしたいという気持ちはよくわかる。

絵図や設計図面を書くように、机上で描いた現実ではないもの。それを形にするという点で、人生の進路も、何かを勝ち取るための闘いも、仕事も恋も結婚も、出産も、政治も、経済も、アートも変わらないかもしれない。

けれど、その絵図や図面が、この妄想や夢想、幻想ならいいが、それ以外のもの、特に、社会的に危ういものを描くものだと、いけないとか、つくるために人が集合するするのは危険とか、果ては、社会悪で、犯罪につながるからいけないとするのは、いかがなものだろう。

トランプ政権が中絶や同性愛を否定したように、イスラームや移民を排斥したように、それだけで犯罪とされるとしたら、それは、まだ民主主義が成立していなかった昔、成立しても女性の参政権すらなかった時代に逆行する考え方じゃないだろか。

イギリスでもわずか150年前、日本では、71年前まで、女性が社会にものをいうことそのものが否定され、賃金は安く、男性に隷従するしかなかった。こうありたい社会、こうありたい女性としての自分の妄想や夢想を実現しようとするだけで弾圧された。

表現においても、D・Hロレンスの「チャタレー夫人」のように、公序良俗に反するとしてその芸術性が否定された。

人が心に思うことはだれにも止められない。それは、人が思う妄想や夢想も止められないということだ。そこには、エロスもタナトスもある。だが、それがあることで、ぼくらはすぐれた演劇や映画がつくれ、また、小説や詩、美術といったアートを楽しむことできている。

物語の主人公が立派な尊敬される人でなくてはいけない物語。制度や政治、しくみに従順な人しか登場しない物語。それに逆らうものは排除され、全否定され、烙印を押される物語…

世の不条理、社会や制度の理不尽さ、その狭間で少しでもよりよきものへ、よりよき海を求める姿がますます描けなくなる物語…

それが始まろうとしている。でも、それは、終わりの始まりの物語になるかもしれない…。