秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

底に落ちたポトリ

ある映画にこんなセリフがあった。「人が心に思うことはだれにも止められない…」。

確かに…。

それはよした方がいいとか、それはいいことじゃないだろう…とかいわれても、心のやわらい底にポトリと落ちた感情は、そこに落ちたと、気づいてしまうと、勝手に心の中で膨らんでいくものだ。

それが感情的なこと、情緒的なこと、本能的欲求に近くなればなるほど、当人にもコントロールできなくなる気持ちや思いというものが人にはある。恋愛も、結婚も、不倫も、そうだろう。離婚や別離もそうかもしれない。嫌悪感も、コンプレックスも…

理屈や常識、良識より先に、底に落ちたポトリは心の中に広がり、善悪や他者の評価も問題ではなくなり、前頭葉より視床下部が活性し、ドーパミンが上昇する。

これは達成したい、成就したいという欲求は、それが個人的なものより、社会的なものとなれば、具現化するために時には、理念や理論、方法論も、実現のための現実的なテクニックも必要だ。ただ、感情のおもむくままに…というわけにはいかない。

だが、そうした前頭葉の働きすらも、情動や欲動に支配された上でのことで、まずは、そうしたい、こうしたい、こうありたいという情緒的なパッションの方が、先行逃げ切り型となってしまう。

だから、えてして、そうしたときの理念、理論、方法論、現実テクニックというのは、ザルになる。

冷静に見れば、ツッコミどころ満載。しかし、パッションが、当人にもスカスカのザルだという現実を認めなくさせ、明らかな屁理屈というパテでザルの穴を埋めていくことになる。

いとおしいといえば、いとおしい人の性(サガ)。愚かといえば、愚かな人間の業…w

そうしなくてはいられない、何か。そうしたいと強く思わせるなにか…。それがきっと、あるのだろう…。そう周囲が思うと、最初の紹介した映画のセリフになる。そして、だったら、それも仕方ないじゃないか…。

私事、個人のことなら、それもいい。だが、こと、ぼくら国民や世界の人々にかかわることだと、それでは困る。

このところの国会の与党側の閣僚や官僚の答弁。アメリカのトランプ大統領や政権周辺の答弁。メディの取材に応えるトランプ政権側の閣僚などの発言。いずれもとても似通っている。

パッションややりたいという欲求が先のめりしていて、ザルの穴はない、あってもこのパテで埋められるのだから、議会やマスコミはいいたいだけ言えばいい。国民は支持してくれてて、やるんだから…といった空気がそっくりだ。

もちろん、そうした決意が必要なこともあるだろう。けれど、そもそも民主主義というのはとても手間とコストがかかる政治制度。言い換えれば、それを担保に民主主義というのは成立している。

民主主義は、いわば、こうした情動や情緒的なものと距離を置くために、わざと手間とコストがかかるようにできているといえるのだ。

それがすっ飛ばされてしまうのは、どうなのだろう…。

人が心に思うことはとめられない…のは、いわば、とても純粋だから。だから、それを本気で思う人は、自分の思いをやみくもに、いいものだ、正しいものだとは思ってない。それが、思いを深く、確かにするんじゃないだろか。

底に落ちたポトリは、それくらい大事にしてもらいたい。それでないと、ポトリは人の心も周囲の心も汚していく…。