秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

心情過多の時代の選択

心情過多っというものが、ぼくは幼い頃から好きじゃなかった。子ども心にも、そうしたものが実はとても無力で、短命なものだということを直感していたからだと思う。

だから、子どもの頃から、ぼくは、冷たい人、冷めた人間という見方をされていたし、それで人に嫌われたことも、人を遠ざけてもきたとも思う。

心情、つまり、情感や情緒では、物事を生み出すことはできない。また、変えることもできない。持続性もない。いまある課題、そこにある困難を根気強く乗り越えることも、課題を越えて、明日をつくる、新しいなにかを生み出すこともできない。

創造と変革のためには、理念や理論といった感情からは遠い、冷静でち密な数式が必要になるのだ。それが直感によってであれ、感情に支配された視床下部の原始的で、本能に近い脳ではない、前頭葉の働きを使わなくては、立ちいかない。

情緒や情感に支えられている心情は、脳の機能レベルでいえば、情動の働きが基本にある。

この世の中、有史以来、情動だけで物事がうまくいった試しは一度もない。情動が支配する心情がその動機としてあったとしても、それを感情のままに発露して、家庭も、社会も、地域も、国も、世界も、よりよくなったことはないのだ。

逆に、心情を背景とした一時の感情が、個人、家庭、社会、地域、国、そして世界を不幸にした例は枚挙にいとまがない。これは歴史が証明している。

ぼくらが生きるいまという時代。内向きの時代とか、閉じた時代だといわれている。そうなるのは、ぼくらの暮らしも、地域も、社会、そして国も世界も、それぞれが感情に支配される時代を迎えているからだ。

公民権運動前に逆戻りしたような候補がアメリカ大統領選挙に現れ、大衆の支持をえる。彼が叫んでいるのは、政策でもなければ、理論でもない。ただの感情を大仰に、そして過激な排他主義と人権無視を言葉にしているだけだ。

イギリスの国民投票がEUからの離脱を決めた。離脱を主張する政治家も支持する大衆も、アメリカと同じように、格差にあり、何らの形で社会の主流には位置することのできない、知識層から遠い人々が中心だ。

本来なら、そうした人々はかつての公民権運動のように、閉じる側への選択ではなく、開く方向への選択をしてきた。それが、いまは、内へ内へと国家主義国粋主義、揶揄していえば、テイコク主義に傾いている。

これは対岸のことではなく、この国でも起きていることだ。安倍首相がなにかの政治的課題で口にしている言葉は理論ではなく、情感、情緒、感情に訴える言葉ばかりだ。これを糾弾する政治家もまたそうだ。

理論なき、心情が優先する政治ほど、つまらないものはない。主張のない、心情ネタを流す報道ほどうすっぺらなものはない。なのに、感情に支配される人、されたがる人たちは、その浅薄さに簡単に左右され、翻弄され、自らも感情の人となっていく。

社会がみえなくなり、国も、人も他者との境界線があいまいになると、不安と恐れが肥大する。だけどそれは、2016年と、これからの時代、歴史の中で、ぼくらが感情に自らを見失わず、向き合い、乗り越えていかなければいけないものなんじゃないだろうか。

それを理解できる脳と勇気という感情を持てるかどうかの選択がぼくらに突き付けられている。