自分を勘定に入れず
人には、どうしようもない性(さが)、あるいは業というものがある。いい悪いではなく、なにかへの執着が強かったり、逆に、なにかへの思いや配慮が薄かったり…
ああ、またやってしまっているとあとで気づき、自覚するなにかだ。あるいは、まったく自覚できていなくて、救われない人として、裸の王様女王様であったり、失敗や過ちからなにひとつ学ぼうとしない人だ。
物書きや創作にかかわる人間からすると、そのどうしようもないものを持っている人の方が興味をひかれるし、じつはおもしろい。程度の差や質の違いはあれ、大方の人がそうだからだ。
物書きや創作にかかわる人間からすると、そのどうしようもないものを持っている人の方が興味をひかれるし、じつはおもしろい。程度の差や質の違いはあれ、大方の人がそうだからだ。
表層的にはそう見えない人でも、内面に目をこらせば、人並みのそうした性や業というものはある。お行儀のいいしつらえや上品な笑顔の下に、じつは、そうした、どうしようもないいろいろなものを抱えているのが人というものだ。
友だちや親友になれるかなれないか、愛すべき人であるか否かは、その基準ではない。
広く、高く、懐の深い視野から見れば、そのいろいろあって未熟であるがゆえに、人はいとおしいのだ。未熟が生み出す人間の愛憎や執着、醜態、痴態、愚鈍さとそれが導く、対立や葛藤、笑いといった悲喜劇に人は共感もし、感動もする。
当時者に、つまり登場人物にはなれず、自分という人間をこの世の勘定にいれてなければ、遠くから冷静に眺めるように、その実態を描くことも、人をいとおしいと描くこともできるだろう。
創作の基本は、過度の感情移入をせず、冷静にそれができることだ。結果として、描かれたものに観る人や読む人、知る人が感情移入すればいいことでしかない。
創作の基本は、過度の感情移入をせず、冷静にそれができることだ。結果として、描かれたものに観る人や読む人、知る人が感情移入すればいいことでしかない。
宮沢賢治の詩に、「自分を勘定に入れず」という言葉がある。なにかを生み出す基本には、とりわけ、創造という行為にはそれがなくてはならぬ。作家も、心あるプランナーも、監督も、演出家も、オレがオレがでは務まらない。
ある意味、この世にには存在しない者としての視野からしか、いまを懸命に生きる人は描けない。
SmartCityの主役はそれを創作しているMOVEではない。MOVEは舞台を提供しているだけだ。主役は、その舞台に登場している福島の人々だ。
写真は、震災後、まだ仮設や借り上げ、親類の家に身を寄せている状態で、MOVE宣言に共感して、自腹の手弁当でもMOVEの東京でのイベントに参加してくれるといってくれた、久ノ浜のおねぇさん?たち。大事な主役です。