絶対の調和
人や自然の風景にふれて、ああ、いとおしいなぁと思えるのは、自分のふるさとの風景であったり、人であったりするのだろう。
だが、ふるさとというものを持たないオレのような人間でも、人や自然の風景にふれて、なつかしさはなくてとも、ああ、いとおしいなぁと思うことはある。
美しいなぁだけでもなく、なつかしいなぁでもない。ただ、ただ、いとおしいのだ。
美しいなぁだけでもなく、なつかしいなぁでもない。ただ、ただ、いとおしいのだ。
その土地に根拠や歴史を自分自身が持っていなくても、人や自然の風景をそう思えるのは、大仰にいえば、そこにいのちを、もっといえば、大地を、そして、自然を通じて、世界や宇宙を感じられるからだ。
山々も木々も草花も、そして農作物も、そこに飛び交う鳥や虫やさまざまな生き物たちも、空気も空も、雲も、太陽も月も…自然という宇宙がつくり出した世界の同じ、ひとつのいのちの輪の中にある…そう感じるから、いとおしいのだ。そして、それは見事に調和がとれている。だから、美しい。
数学や物理学、分子生物学でいえば、すべてが「絶対の調和」をつくっている。生物の世界は、食物連鎖を始め、すべてが一見対立しているようにみえて、互いに依存し、協働し、全体でひとつのサイクルを描いて、どれひとつとして欠けてもいない。
それはすべてのいのちが同じいのちから生まれ、個別のいのちの連携が、宇宙という大きないのちに抱かれていることを示している。
数学や物理学、あるいは分子生物学の世界をながめると、究極にいきつくのは、すべてのいのちが、神の偶然ではなく、必然によって、宇宙のひとつの数式からもたらされているということ。その数式を求めて、人類はいまも神の財布の中身をのぞき見ようとしている。
昨夜は、震災の年から誘われていた遠野産業振興事業協同組合が始め、いまでは遠野町の恒例の祭りとなっている「満月祭」に参加させてもらった。理事長の平子さんや事務局の佐川さんがいっていたように、じつに見事な月がみられた。
昨夜は、震災の年から誘われていた遠野産業振興事業協同組合が始め、いまでは遠野町の恒例の祭りとなっている「満月祭」に参加させてもらった。理事長の平子さんや事務局の佐川さんがいっていたように、じつに見事な月がみられた。
30代の後半の頃、長く蓼科の仕事をやっていたときも、標高1200メートル以上の山間部の独特の自然の風景に接していた。そこでも同じように、絶対の調和の美しさを感じたことがある。
諍いや対立があってもいい。行き違いや思いのずれやわだかまりや好き嫌いがあってもいい。だが、それがいかに矮小で、つまないことか…美しさを備えた絶対の調和の中に、自分もすべての人も、あらゆるいのちが、欠かせないひとつとしてそこにあると実感できれば、それがわかる。
ここには、震災、津波、原発事故を通じて、それを痛感した人たちがいる。痛感して、自分なりのやり方と方法で、地域の絶対の調和を願う人たちがいる…
ここには、震災、津波、原発事故を通じて、それを痛感した人たちがいる。痛感して、自分なりのやり方と方法で、地域の絶対の調和を願う人たちがいる…
写真は昨夜の満月祭。前日の2時間睡眠で、打ち上げへの参加は辞退して、失礼してしまったが、三戸さんがとってくれた写真にその心癒す世界がきちんと映しだされている。じつは、人はみな、絶対の調和、それを求めている。