秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

誇り

このところ、ほかの仕事で時間をとられ、都内、港区での作業が中心ということもあるが、福島の中通り会津若松にすっかりご無沙汰している。いわきの久ノ浜やそのずっと先の相馬もご無沙汰だ。

幸い、fbで近況を知ることもできるのだが、SNSなんかわからないという知り合いも多いから、しばらくいけてないとなぜかとても申し訳なく思うw

ぼくが福島のことを始めたとき、そうした思いをひとりでも多くの人に持ってもらいたい、感じてもらいたい。そう考えていた。

自分のふるさとでもなく、頻繁に訪れる観光地でもなく、ずっと以前からの知人、友人がいるわけでもなく、しかし、震災があったからこそ、出会えた出会いを福島の人たちにも、都民にも大切に育ててもらいたい。

同じ町に生きる、地域の仲間のように相手をいつも心に留め置いてほしい。それが本当の意味で、支援する、されるではなく、依存する、しないではない対等の立場、地域間連携や地域を越えた新しい交流とそれによる相互理解の始まりだと考えていたからだ。

人のつながりなくして、産業も芸術も、文化も教育も、地域づくりも生活もありえない。ただやみくもに、互いが物理的に利することだけでつながろうとしても、利に敏いだけの関係で、ほんとうの意味で新しい何かを生み出す、つくり出す力にはならないとぼくは思っているからだ。

利用する、利用される。その結果、経済がよくなればいい、生活がよくなればいい。
いわゆるWin Winという言葉がぼくは大、大、大嫌いだ。

自分に物理的に利するところがなくても、人は他者への愛情や思いや期待、そして願いがあれば、利を越えて、道に生きることができる。共に歩むことができる。

だが、大方の人は勘違いしていて、利がなければ、道はできないと考えている。利するところがないと道は拓けないと思い違いをしている。

そうではない。道があって、利が拓けるのだ。

もし、利を求めない道中半で行き詰まるとしたら、それは、そもそも道を間違えているか、道を歩む自分の思いや力が足りないからだと考えた方がいい。うまくいかないからといって、安直に、利を求めて行くべき道をたがえないことだ。

もちろん、その過程で、苦しかったり、悲しかったり、悔しかったり、虚しかったり、不安だったりする。ぼくも何度もそうした思いを持った。その度に、自分の思いを鍛えられた。そうできたのは、利を先にせず、会いたい、心地よいと思える多くの福島の人との出会いがあったからだ。

もし、利に敏い人ばかりだったら、きっとぼくは、ぼく自身を支えきれなかっただろう。

自分の都合でつながりを持っておいた方が得だから。そんなことがかすかでもぼくの皮膚が感じたら、あるいは、ぼくがそう感じさせていたら、きっといまの福島との付き合いもなかったと思う。

都合のいいところだけ、利するところだけ、それだけのために人とつながろうとすれば、いずれ底が割れる。

いとおしい。そう思える心があるかどうか。それに応える同じ思いが自らにあるかどうか。福島に限らず、人をつなぐ根幹にあるのは、それしかない。

このところ福島からの自主避難の家庭の子どもがいじめに遭うという報道がされている。2013年拙作のショートフィルム『誇り 差別といじめは越えられる』で、福島への差別の問題に警鐘を鳴らした。じつは震災当時から福島への差別はあったのだ。

「いまは、昔よりずっと福島のことが好きになった。福島に生まれてよかった。福島に生きてよかった。福島のこと、誇りに思ってる…」。ドラマの中で、ひとりの女子中学生が幼馴染の自主避難の同級生にいうセリフだ。

そこにあるのは、人を、地域を、心からいとおしいと思えることの大切さだ。いじめをしている子ども、保護者に、自主避難してきた子ども、保護者に、そのことを深く考えてもらいたい。