秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

誤った記憶の海

記憶…その屈折率を最初に分析したのはフロイトだ。記憶…その喪失をポエムにしたのはプルーストだ。記憶…そのでたらめさを射抜いたのはジョイスベケットだ。

ぼくらは経験、体験によってさまざまな学習をしている。学習を成立させているのは、記憶だ。じつは、学習能力の高い低いは、経験、体験によって得た情報の処理能力、応用能力のことをいっている。受験や語学学習、国家試験がその典型だ。

だから、それ自体は、創造性や独自性につながらない。それで不都合なことは通常ありえない。いや、創造性や独創性、独自性があることで、逆に情報処理の作業を複雑、難解にさせ、不都合なことに直面することになる。

世の中の多くは、だから、創造性といったものとは別のところで動いている。引き出される記憶も、それに適応できるものを選択して記憶のデータ箱、海馬から取り出す。

だが、フロイトが分析したように、プルーストが記憶の喪失の格闘を描いたように、そして、ジョイスベケットがその歪曲と誤謬をいったように、引き出される記憶は、現実の問題や課題に対応するために、リセット、もしくは空白、変形、異形されて出てくる。

もっといえば、自分という存在の連続性、昨日、今日、そして明日と一貫した自分であろうと見せるために、当然のように、記憶を歪曲させ、それが真実あるかのように見せかける。見せかけという自覚は持てないままにだ。

そのときになって、社会的には不都合なものとなる創造性や独自性で、現実対応のための、穴埋め、辻褄あわせのための創作をやることになる。

ぼくらはそうやって、じつは日々変わっている自分という人間がゆるぎない一貫性と同じ主張を持った、信頼に値する人間のようにふるまい、また、現実を滞らせないために他者もそれを容認、受け入れることで、互いに現実を維持しようとする。

つまり、つくられた記憶による、つくられた「いま」とつくられるであろう、真実とは程遠い記憶を現実への対処として、共有していくのだ。

連休本番前、支持者を集めたパーティの会場で、安倍首相の驚くべきメッセージが流された。

国内政策はすべてはうまくいっている…それを前提にした、これからのぼくらの国の未来にかかわることをすべて彼の一存で実現すると宣言したような内容だ。

だが、ぼくらの少なくとも半数は、すべてがうまくいってないこと、多くの課題が残されていること、ぼくらの国の未来は、彼ではなく、国民が考え、決断することなのだと思っている。

だが、安倍首相の記憶の誤りを首相をサポ―とする人間たちの誰も指摘しないばかりか、誤りを様々な創作によって妥当なものに強引に変えようとしている。

安倍政権を支持する人たちは、きっと安倍首相のことを本気で心配し、よりいい首相、名実ともに歴史に名を残す偉大な首相にしよう、そうは考えていないのだろう。

それではあまりに、誤った記憶の海に翻弄されている首相が気の毒じゃないのだろうか…。