秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

ひとつになろうとすること

「夜の窓明かりの向こうで、男女が抱擁し合う。だが、それは二人の意志や気持ちがひとつになったという証ではない」

サミュエル・ベケットの小説の一説にそんな文章があった。

人と人のつながりは、どうしようもなく希薄なものだ。いかにそこに、恋という感情や肉親の愛といった言葉や精神性が介在したとしても。本当の意味で人は、人と人がつながり合うということの意味や姿、形を知らない。

それは当然のことなのだ。

なぜなら、人は、本当の意味で、肉親であれ、他者であれ、完全なるひとつにはなれない。おそらく、人が言葉や数字、色や音といった意志の伝達手段を発見し、発展させるほどに、完全なるひとつから果てしなく遠ざかり、遠ざかり続けている。

身体のふれあい、交わりにおいてさえ、その不確かさは一層深くなる。

考えてもみたまえ。一夜限りのセックスもあれば、わずかな期間、互いの弱さや傷を慰め合うようなセックスも、恋もある。

まして、長く連れ添う夫婦や恋人、内縁関係にあっては、セックスそのものが形ばかりのものである場合も少なくない。いや、ノンセックスも含め、その方がはるかに多いだろう。

人と人がひとつになる。それは、途轍もない不可能への挑戦なのだ。だが、それでも人は、完全とはいえないまでも、ひとつでありたがる。そのために、あらゆる知恵と工夫で、つまりは、言葉や数字、色や音といったもので、それをひとつにしようとしてきた。

だが、それでも、人と人には齟齬があり、かい離があり、埋められない溝や谷、深淵がある。
ならば、つながり合えないものということを人と人の自明のこととして始めればいい。そう見限ればいい。

そういうと、ひどく冷徹だと思う人もいるだろう。肉親の情愛や男女の恋愛を否定していると思うだろう。

しかし、同郷とか、同窓とか、同志とか、同人、同僚というものが、閉じた世界の中でしか成立しない、社会的便宜性の代物でしかないことを多くの人が知っている。何事か問題が生まれれば、人と人との情的な結びつきに、あっという間に亀裂が走ることも知っている。

同じであることで生まれる、人と人のつながりはそれほど弱く、脆い。そして、埋め切れないものが多いことも人はわかっている。

ただ、見方や考え方、とらえ方を変えることが怖いだけだ。怖いか、その他の方法を知らないだけなのだ。探ろう、考えようとしていないだけのことだ。

義理や人情、情愛や感情ではなく、冷徹といわれても、同じを共通項にしないつながりを求めて歩き出す。そんなときが、もうずいぶん前から、この国に、世界に、訪れている。

はるか宇宙から見ると、それに気付けてないぼくたちは、どれほど歯がゆく、愚かしく見えていることだろう。