秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

ぼくらの現実

人が人と、人が社会と、人が世界とつながるための作法とか、ふるまい、所作といったものが、かつてはあった。

それは、人と人、人と社会、人と世界の距離や間合いがいまよりずっと離れ、出会える人、出会える社会、出会える世界がいまより驚くほど、狭かったからだ。

距離と間合いを埋めるためには、作法があり、出会える空間が狭いために、希少な出会いと出会いの空間を損なわいよう、そこには互いが自明とする礼儀にもとづく、ふるまい、作法があった。希少だからこそ、損なわず、継続、維持しようと努めるからだ。

いわば、人と人、人と社会、人と世界がつながるための、いい意味での緊張感と構え、律儀さといったようなものがあったのだ。

だが、ぼくらは、ネットやWEB、SNSの登場によって、それらが媒介する、距離や間合いを簡単に乗り越え、そこに神経をつかわなくてよくなった。かつ、驚くほど広いつながりの世界を持てるようになり、こうした律儀さを容易に飛び越えることができるようになった。

それはそれでいいこともある。これまでのためらいや不要な遠慮、柔軟さを奪う不器用な頑なさといったものから解放され、日々の会話の延長に、日々のふるまいの延長に人、社会、世界とつながり会えるようになったからだ。

しかし、それは、人が人と、人が社会と、人が世界とつながることのあり方も、奔放にさせた。いつでもブロックでき、シャットアウトでき、削除することができる。そして、次の人、次の社会、別の世界とつながることができる…。

おもしろい! すごい!と思ってつながって、あるとき、あれ、おもしろくねぇ、こいつ。たいしたこねぇじゃん…と感じたたら、すぐに消し、変更することができる。また、たいしことねぇを拡散したり、それによって炎上させることもできる。

容易に裏切ることができ、また容易に裏切られる。それさえ示されないで傷ついてしまう人、社会、世界もある。

その危うさを知るがゆえに、おもしろさ、すごさを演出し続けなくてはならないということも起きる。

いま、フェイク情報やオルタナティブ・ファクトがネット上はもちろん、現実の政治経済の世界でも、ぼくらの生活のありふれた日々の中にも普段着の顔で平気でやられている。

それは、人々を相互不信に陥れる。

自分がリアルに見て直感したもの、体感したもの、空気にふれて、理解しただけでは判断するのがこわく、いろいろな情報をかき集めないと不安になる。そこに、親切心や親心のような何食わぬ顔で、不安を煽るフェイク情報やオルタナティブ・ファクトが横やりを入れ、ブロック、シャットアウト、攻撃を指示され、人は容易に操られる。

結果、人も、社会も、世界も、気づけば、驚くほど遠くなり、想像していたよりもはるかに狭く、小さなものになっている。

それが、ぼくらのいま、ぼくらの現実だ。