秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

Hold Up Stage Up

私、悪くないもん!

 

その言葉が必ず先に出る人がいる。出ないまでも、まず、相手への批判や文句、ケチをつけることから始める人がいるものだ

 

仮に、相手への批判をするにせよ、論理的にそれができれば、まだましだが、論理以前に「自分は悪くない」を前提として批判を始めるものだから、それが論理的であるはずもない

 

心理学に「認知不協和」という研究がある。何かの問題が生じたときに生じる不快感や違和感を自分の言動、ふるまいが原因だとすることを認めない、認めたがらない心の動き、状態のことだ

特別な人に起きることではない。ただ、日常的な生活会話から一歩踏み込んだ会話になると、とたんに会話がかみ合わなくなる人がいる。自分の利害に絡むと一層そうなるという人がいる

背景には、プライドがある。もっと正しくいえば高慢さ

プライドにも認知の歪曲があり、演技性人格障害ではないが、実績も実際の能力においても欠落があるのに、自分はたいした人間なのだという誤謬が働くと、この認知不協和は起きやすい。

そもそも、本当の意味で、プライドある人は、問題が生じたときにその問題点を分析し、理解し、次にどうするかを考え、善後策をとることでプライドを保とうとする

 

感情的な批判や相手を貶めるような言動で責任を回避することはプライドが許さない

それが恥ずべきことだと知っているからだ 恥ずべきことをするくらいなら、降参してホールドアップし、次の道を探す。

新型コロナ感染症対策の政権の言動をみていると、この認知不協和を絵に描いたような姿と思えるのは、ぼくだけではないだろう

前首相の安倍晋三もそうだが、菅首相にいたっては、記者会見を嫌い、やっと開いた記者会見もあらかじめ台本を用意し、記者質問も事前に出来レースで準備させている。政権の問題や過ちを指摘されることを最初っから排除し、不快感を感じなくするためだ

逆をいえば、自分及び取り巻き閣僚や官僚がやってきたことの不具合には気づいている。だが、それを認めないし、謝罪もしない。実体のないプライド=高慢さが根深くあるからだ

いやま政治家、官僚、医者、弁護士、教師、企業経営者といった社会的職責のある人間に、かつてのような倫理観など正当性が担保されていると考えている人間は少ない。終ってしまった階層社会のヒエラルキーだけが残り、そこに知性や理性、教養が伴っていないことは、まともな国民ならわかっている。

空疎な肩書や地位にだけ重きを置いているから、空洞化したヒエラルキーに乗っかっているだけの自分の実態が見えていないのだ。また、この空虚さがこの国の政治を動かしていることに気づいてない、終わったヒエラルキー、権威づけにこだわってるおバカな国民が多いからだ

人はもちろん万全ではない。同時に、こうした認知不協和を持つ人間にも社会に貢献できる能力はあるだろう

だからこそ、自らの現実を知り、能力ある人材や自分の不足を補う人を重用し、過ちや愚かさを謙虚に認め、人の力なくして、我が身がない現実に目覚めることが不可欠なのだ

そのためには、現場に塗れること、現実の人と深くかかわり合うことしかない

現実にはいろいろな人間がいる 自分が好む人たちばかりではない

だが、その力が必要不可欠なときがある

 

ぼくも経験があるが、生死の際に立たされると人は自分の力では何もできない

他の力を頼みとするしかないのだ

そうした経験の中で、人は初めて人に過ちを認め、謝罪し、感謝できる
万全ではない、ぼくらがよりよい社会を築くために、いまもっとも必要としていることだ

ホールドアップは恥ずかしいことではない 次へのステージアップだ