秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

余白

自然界で起きる現象っていうのは、じつはぼくら人類やぼくら自身の国や社会、地域や家庭の姿のひとつの表象なんじゃないんだろうか…。

だって、ぼくら自身が自然界のひとつであり、そのけし粒ほどの存在でしかないんだからね。

人と自然が対立関係や対峙する関係、あるいは自然がもたらす資源を人間が自由に使うことをよしとして、自然より人間が優位な関係のように錯覚を始めたのは、わずか200年ほど前。産業革命以後のことだ。

以来、ぼくらの地球は社会主義国家であろうが、資本主義国家であろうが、資源をむさぼるように発展、成長してきた。大量殺りく戦争という悲惨も、核の悲劇もそこから生まれている。ぼくらの国も明治以後、150年、その同じ道を歩んでいる。

自然をむさぼるように発展、成長してないことを文明の遅れと考え、また、そう呼ばれる人々や国は、文明の遅れを越えるために、同じように発展、成長を求めてきた。そして、いまも求め続けている。

発展、成長はいけないことではない。だけど、ぼくらは、ほどほどにということをいつか忘れてしまったんだ。

けれど、その限界が来ていることも多くの人たちが知っている。知っていて、自分たちの国と国を動かす人たちのこれまでの優位性、利益、利権、権益、既得権を守ろうとする人たちもいれば、資源を枯渇させないために、提言を重ねる人たちもいる。

自然に対して謙虚だと損をすると考える人、自然に対して謙虚であろうとする人。発展、成長は止めてはならないと考える人、これまでの発展、成長とは違う、持続可能な社会のあり方、成長のあり方を考える人…。

だが、謙虚であろうと言葉ではいえても、持続可能な社会をと提唱できても、抜き差しならない、このいまになっても、ぼくらは生活のあり方も、世界のあり方も変えることができないでいる。現状維持、現状容認であることを振り返れない。

それは、まるでまだ、この社会にも、国にも、世界にも、人類には余白があると、ありもしない幻想にしがみついている姿にしか見えない。

いまだけしか見る力のない人たちが、ありもしない幻想を、ありもしない事実をその無知から問い直さず、謙虚に振り返れない。

それを突きつけるように、いまこの国のいたるところが揺れている。この国だけではない、世界のいたるところで、不誠実で、不躾で、謙虚さもなく、否定や排他、罵倒や憎悪、紛争が起き、諍いや対立が生まれ、人として、人間としての互いの尊厳を奪い合っている。

謙虚なら、人としての尊厳を重んじるなら、未来を生きるこれからの人々の幸せを本気で考えるなら、この国だけで、年収200万円以上300万円以下の世帯が全世帯の2割を超えようとする社会にも、国にも、そして、世界に貧困が広がるはずがない。自然にゆだねることのできない核廃棄物を量産し続けるはずもない。

余白のない地球を知らない人たちは、余白のないところで自分だけの余白をつくろうとする。未来に残された、わずかな余白を食いつぶしながら。



















そういう謙虚さってものが、どんどん遠のくほどに、この国の自然災害は増えているような気がするのはぼくだけだろうか。







どのような政治制度の中でも、どのような社会制度の中でも、必ず、そこから取り残される人、見過ごされる人、見限られる人たちがいる。

人々が等しく貧しく、人々が同じように生活苦や生活課題を抱えているとき、社会や制度から取り残されているもの、見過ごされているもの、見限られているものの姿は、人々の目に露わだ。

だが、