かすかな期待
このところ、20代や30代の新しい人たちとあちこちで出会う。そして、質問攻めに遭うw
ぼくがやっている福島のこと、NPOや映画のこと、あるいは舞台、演劇のこと、教育のこと、地域課題や政治のことなどだが、それ以上に、どこでも共通なのは、「なんで?」という基本的な質問だ。
もっといえば、この何をやっているのかよくわからない大人は、いまなんで、こういう生き方をしているのか…という疑問だ。
どうやら、彼らには、ぼくがやっていることは理解できても、ぼくがどういう経緯やきっかけで、福島のことを始め、あれこれおかしなこと、普通のまともな大人w ならやらないことをやっているのかがとても不思議らしいのだ。
今年、母校の高校が100周年を迎えるのだけど、数年前、創立記念日に生徒向けの記念講演をやったこともあり、寄稿文を頼まれた。
そこに書いているが、ぼくがこんなふうな、よくわからない人生を選択し、いま、あれこれやっているのは、高校の3年間で体験したこと、考えたこと、行動したこと、挑戦しようとしていたこと、そして何より、失敗したこと、挫折したことが大きい。
厳密にいえば、小学校の高学年あたりからだけれど、ぼくの生きたい生き方はそこでほぼ決まっていたと思う。もちろん、いろいろな偶然のような出会いがなければ、いまに至る選択はなかったけれど、選択の志向性は決まっていた。
それは読書の影響が大きい。言葉、文字を通じて、ぼくは小学校の高学年の頃から、いろいろなことを教えられ、夢想し、夢想の世界で選択のトレーニングをしていたのだと思う。良書は、人に問いを投げかける。
それは読書の影響が大きい。言葉、文字を通じて、ぼくは小学校の高学年の頃から、いろいろなことを教えられ、夢想し、夢想の世界で選択のトレーニングをしていたのだと思う。良書は、人に問いを投げかける。
若いときに、学び、経験し、実践しても、それはすぐ成果や結果が生み出せるものではない。あれもやろう、これもやってみようと興味や好奇心、意欲があれば、すべてに万全というわけにもいかない。寄り道もする。
だから、持ち越しや取りこぼし、後回しになるものが出てくる。時間があっても足りないのが若さだ。追いかければ追いかけるほど、知りたい、学びたい、もっと熟練したい…そう思うのが、若さを全うするということだ。だから、それゆえに、不完全なままだ。
けれど、それをあのときの、あの時代のものと置き去りにするかしないか。それで、そいつの人生は決まる。ぼくはそう思ってきたし、いまも思っている。
いまだけの興味や関心、好奇心で、それが持続しない、継続しない。そうしたものは、本物にも、真実にも出くわさないんじゃないだろうか。場合によっては、最後の勝利をえることもできないだろう。何を勝利とするかは、人、それぞれだけれど…。ぼくは子どもの頃からそう思ってきた。
何度負けても、何度くじけても、何度拒絶されても、そこで与えられた宿題を片づけていけば、いつかより深い何かに到達できるはずだ…という漠然とした思いがあった。
だが、それを短い時間の中で、新しい人たちに伝えるのは難しい。 結果、より謎が深まるらしいw
だが、それを短い時間の中で、新しい人たちに伝えるのは難しい。 結果、より謎が深まるらしいw
けれど、とても期待できるのは、そうした問いを抱き、直截に尋ねる新しい人たちがいることだ。それは、ぼくに、こんなどうしようもない国の、世界の明日への期待をかすかに抱かせる。
少なくとも彼らは、自分のことと同じくらい、他者のこと、まだ知らないと謙虚になれる、世界のことを考えている。