秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

ただいま思案中

ぼくらの生活や社会、国や世界で、鬱屈し、屈折した感情がシノギを削り合っている…。そんな気がするのはぼくだけなのだろうか。

鬱屈、屈折した感情というのは、一言でいってしまえば、コンプレックス。いまの時代を一言でたとえるなら、このコンプレックスの時代といってもいいとぼくは思っている。

Complexというのは、もともと心理学、精神医学の言葉というのは、みんな知っている。

日本では、戦後、占領下、アメリカの精神科医アドラーの劣等複合が広く知られ、なじまれてしまったから、コンプレックスというと劣等感のことで、これを克服することが大事なことのように理解されているし、ぼくも思春期にはそう思っていた。

それはそれで、ひとつのあり方だとはいまでも思うけれど、演劇をやって、ギリシャ悲劇やテネシーウィリアムズ。あるいは、ジョイスベケットの世界を知れば知るほど、人もそうだけれど、人の集合である家庭、家庭の集合である地域、地域の集合の社会、そして、国、世界の動向のずっと奥深いところに、それがあるんじゃないだろうか…

と、浅薄な知識で、身勝手に夢想するようになってしまった。それというのは、劣勢複合ではなく、フロイトのいうエディプスコンプレックスのこと。

人が内在し、潜在化している劣等感を指摘して、それを克服するというのは、いかにもアメリカの実証主義で実利的な考え方だ。

労働とその対価を美徳とするプロテスタンティズム=資本主義が生みそうな解釈だ。そこには、優劣の差異と克服だけで世界を理解できるといった単純さの感触があるのさ。言い換えれば、善悪とか正義不正義とか、生産性や効率といった…

世界を理解しよう、社会を理解しよう、地域や家庭、人を理解しようとするとき、ぼくらはついつい、世界とは…とか、社会はとか、地域・家庭はとか…枠組み、仕組み、制度から考えてしてしまう。

人を理解する上でも、思想は…とか、信念はとか、性格、果ては人柄は…とか…。そして、それが美しいか美しくないかとか…

けれど、最近、それはほとんど有効ではなくなっているんじゃないだろうかと思い始めている。それでは保護主義民族主義、人種優位主義といった狭窄した考え、排他を当然とする力に太刀打ちできないんじゃないかってね。

制度やしくみを論じることも大事だし、政策論や政治理念、経済のナントカ理論をひも解くことも大切なのだけれど、いま、それだけでは、いや、それゆえに、無力に限りなく近くなる…そんな気がしているのさ。

そして、いま世界や日本の政治、経済で起きていることも、ぼくらの社会、地域や職場、家庭や学校で起きていることも、どこかで劣勢の克服こそ美徳で成功のように考えているところに空回りした議論が生まれているじゃないかってね。

どのような立場、どのような政治的、経済的思考の人にも、もっといえば、大半の人々の生活そのもの、それがつくる生活意識そのものが、不明な謎を解けないことにいら立って、自分たちがそれぞれに抱える劣勢を克服することばかりにやっきになている。

互いの劣等感や弱みをつつき合って、うわすべりな対立を繰り返すか、それができないと劣等感を補完してくれるなにかの力に頼り、下僕のように従順になってしまう…。

そこにあるのは、自分にない、力への依存とそれへの反駁の思いなのじゃないだろうか。反駁も力への憧憬や羨望がどこかにある。

父を越えて、母なるものに再度出会うことで人としてのバランスがとれるとするなら、
いまは、その母さえもコンプレックスを乗り越えられず、その自覚もない稚拙さで、大らかに暴力をたたえていてる。

そんなコンプレックスだらけの時代に、それを押し返す力は何なのか。ぼくもただいま思案中だ。だけど、考えないで大きなお父さんを当てにするより、まだましだと思っている。