秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

若冲の重点

伊東若冲の作品展が大反響だったらしい。残念ながら、ぼくは仕事続きで美術館にはいけなかった。

若冲の驚愕の現代性や現代技術を先取りした色彩への挑戦はいろいろなところで指摘されているので、専門外のぼくがあれこれいうところはないのだけれど、若冲に限らず、人々から高い評価をえる美術、芸術といったものには、共通点がある。

もちろん、独創性や技術の高さ、斬新さといったものは基本だけれど、どこに、なにに、重点を置き、その表現がいかに理にかなっているか、理にかないながら、理としての妥当性、説得性だけでなく、情として人々が共有できるものがそこにあるかどうかだとぼくは思っている。

言い方を変えれば、なにを見ているのか、どこを見ているのか、そして、それを見て、どうのように示そうとし、かつ示すための創意をこらし、なにを伝えているかだ。

伊東若冲は40歳を過ぎで美術家として生きたが、本来は、京都の商家の経営者であり、地域活動もやる地域の世話役でもあった。地域の商業権の問題で、世話役ととして再活動し、若冲に作家生活の空白があることは知られている。

若冲の美術が絢爛さだけでなく、老いや死といった視点を持ち、生物多様性がつくる地球規模、宇宙規模の視野、広大な作品世界を持つ片りんがそこにあるとぼくは思っている。

若冲がなにを見ていたのか、見ようとしてたのか、そして、それをどう示そうとしていたかが現れていると思うからだ。

人のため、世のため、社会のためと、いろいろな人が口にする。だが、そのナントカのためは、どこに重点が置かれているのだろう。どこを見て、なにを見て、ナントカのためが必要だと考え、発言し、行動しているのだろう。

重要なのは、そのことだとぼくは思う。

これまでにない規模でこの国には格差が広がっている。30年前から始まっていたことだが、それがここに来て急加速している。格差だけではない。家庭というものの枠組みが脆弱化し、それに拍車をかけるように地域のつながりや地域が持っていた地域力が喪失しつつある。これもすでに30年以上前から指摘されていたことだ。

その間、いろいろに、生活者のため、国民のため、地域のため、世のため、社会のため、あるいは、世界のために…といわれ続きてきた。だが、どの生活者を、どの国民を、どの地域を、どのこの世を、どの社会を、そして、どの世界を、そう語る人々は見てきたのだろう。

いま、きっとはっきりと言葉にしたり、解説したりはできないかもしれないが、多くの人が、見るとこが違うよ、見ようとしている点はそこじゃないよ、そんな思いを抱いているはずだ。

重点を置くべきところが人々の思いや実状とあまりに違う。それは若冲の時代にもあったことだけれど、300年という時間をもらっても、ぼくらは、どこかで、まだ、若冲にさえ及んでいない。

重点が見えない治世、重点を示せない政治、取り組むべき重点から変えていけない社会、国…それを変えられるのは、ぼくら自身がそこじゃないぞといえる知を磨き、世界を知ることだ。若冲のように。