秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

文脈

文脈を読むという能力がぼくらから失われている。

信号として発信されるもの、出来事として現れる事象…それらをそのとき、その場での点として認識することはできても、その信号や事象が、じつはこうした点で、こうした文脈をつくっているのではないか…

そう直感し、読解する能力が希薄なっている。

松本清張「点と線」ではないが、一見、バラバラに、無関係にみえるものが、視点や角度、見る方向を変えると違った姿、明確な連関があることに気づくことがある。

気づくには、思考の回路が必要だ。バラバラに見えるジグゾーパズルのピースを眺めて、その不揃いの中に、ひとつの絵を見出せるのは、直感の働きのように見えて、じつは、知覚を通して、認識の誤謬を修正し、思考的な組み立てを行っているから。つまり、文脈
を読もうとしているからだ。

こうした場合、経験や記憶がそこにあるけれど、じつは、この習慣性がまた、文脈を見えなくさせるということがある。

ああ、これはこうだから…とか、こうのはずだ…といった、経験と記憶が類型的にしか対象を認識させず、かえって、文脈を見失わさせるということがあるんだ。

そもそも、経験と記憶というものは、本来、当てにならない。日常生活を生きる上での方便としては役立つけど、物事や事象の本質を見るには、適当ではない。

そのことに気づいていないと、まったく文脈が読めないか、読み違えてしまう。ジグゾーパズルのような知覚の認識レベルのことならいいが、もっと大事なこと。人の気持ちとか、つながりとか、関係とかが読めなくなっていく。

たぶん、ぼくらは、先が見えないという時間をずいぶん生きてきたせいで、文脈が読めない、みつけられないことに、とても不安になっている。嫌気がさしているのだと思う。それが文脈を読む能力を低下させ、文脈を読むことに怖れと疲れさえ抱かせている。

あるいは、文脈そのものが当てならないと気づきはじめている。

だから、いい悪いとか、確かかそうではないか、まちがっているとかいないとかよりも、でたらめかもしれないけど、いい加減かもしれないけれど、明確に文脈を示してくれる人や組織、形に依存してしまう。

示す方もたくみで、その不安や心配、寄る辺ない不安定さにヒットするポイントをついてくる。ヒットするだけでなく、ある意味、的を得ているから、全否定もできない。

そういうときには、極論や極端な考え、乱暴な意見が魅力的にも見える。強引ささえも魅惑的だ。だって、どうであれ、不安の中に、いままでとは違う、新しい道、文脈を示し、示すだけでなく、実現できるかもという期待感さえ抱かせることができる。

そこに富や力、名声や地位がついてくると、鬼に金棒だw

見え方の形や姿、形状が大事になり、そこにあるでたらめさや危うさといったものは棚上げされてしまう。そして、点が線や面になっていることに気づかなくなる。

そんなことより、この1点で満足させてもらえれば、それでいい。なんでもするわぁ~ということになるw ぼくらは、そんな時代の、そんな世界の、そんな国に、いま生きている。

それがわからないと、ぼくら自身がいまなにをしていかなくていけなのかの文脈が読めないままだ。