秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

耐性という鈍感さ

ぼくらは一時期、結核という病にまったく無関心でいられた。

結核が、それまで不治の病といわれ、がんよりも死亡率が高ったことなど、おそらく、いまの若い人はほとんど知らないだろう。

ペニシリンに始まり、抗生物質が次々に登場し、衛生医療の発展もあって、ぼくらは、結核破傷風天然痘赤痢コレラ、腸チフスといったそれまで死につながった多くの病気から解放された。がんさえも、駆逐はまじかといわれている。

そして、抗生物質投薬は当たり前となり、化学物質によって菌や悪玉細胞を倒すだけでなく、体の中の免疫細胞を増殖する治療など、免疫を操作する医療が当たり前になった。

だが、さっき、一時期といったように、結核は再び増加し、治療薬に対して、負けない細菌やヴィルスも登場している。

これを耐性というのだけれど、かつては効果を示しても、細菌が自ら変容し、治療薬に対する免疫ができて、効かなくなるのだ。この典型がインフルエンザだ。

耐性と免疫という言葉は、医療ばかりでなく、教育の世界でもよく使われる。

それまで、ささいな失敗を悔やみ、引きずっていた者や挫折していた人間がそれを繰り返すうちに、くよくよしない強さを身に付ける、つまり免疫を持つというのものだ。苦しさ、痛みに対してがまんできる強さが生まれ、弱音を吐かないというのもある。

一方で、いじめを受けている者が、いじめをいじめと受け止めないように心を操作するのも耐性のひとつだ。

耐性というのは、ある意味、鈍感さ、ペルソナ(仮面)をまとうことだとぼくは思っている。

それは、痛みや苦しさを感知する心のひだやアンテナを鈍感にすることにもつながるのではないかとぼくは思っているからだ。

鈍感にできる。あるいは何からの事情で意図して鈍感にする。そのことで、いままで、社会倫理や道徳、法に反すると思えたこと、あるいは、筋の通らない、理不尽だとしか思えなかったこと、とてもそんなこと容認できない、自らはできないと否定したこと…

そうしたことを感知することさえ、鈍化させていく。

耐え忍んで、ここを切り抜け、乗り越えることでたくましくなる耐性ならいい。

だが、おかしなことをおかしいとも思えなくなっていくのは、耐性が鍛えられているのではなく、身の回りの現実に鈍感になり、無頓着、無関心、無節操になっていくことにはならないだろうか…

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少し前なら、国会を揺るがす大問題になったことが、いまは、それが当然のことのように素通りされている。

なしくずし…それにだれもしっかりとした対応をしようとしない。それがこの国がわずか数年の間に身に付けた、耐性という鈍感さ。