覚悟
身をゆだねてみる…それは簡単なようで難しい。
身をゆだねるというと、おいおいそんな主体性のないことでどうする、自分の道は自分で拓くもんだろうという人がきっといるだろう。
あるいは、そんな他人まかせ、人頼み、運まかせでどうするんだと諭す人もいるかもしれない。自分らしくあろう、自分のやり方で進もう…そうは思わないのかと批判する人もいるだろう。
身をゆだねるというと、おいおいそんな主体性のないことでどうする、自分の道は自分で拓くもんだろうという人がきっといるだろう。
あるいは、そんな他人まかせ、人頼み、運まかせでどうするんだと諭す人もいるかもしれない。自分らしくあろう、自分のやり方で進もう…そうは思わないのかと批判する人もいるだろう。
ぼくも若い頃はそんなふうに考えていた。そして、そのように行動することで手に入れてきたもの、学んだことも多いと思っていた。
が、しかし。よくよく考えてみると、しゃにむに自力で進んで来たような気でいて、実は、いろいろな人の力や出会いや運に恵まれて、それができていたのだと気づかされる。気づかされることが度々あり、いまでも折々、そう教えられることがある。
人ひとりにできることなどそれほど多くも大きくもない。
だれかの、なにかの力をもらって多くのことが、大きなことができているのだ。けれど、ぼくらはついつい、それも含めて自分だけの力で何事か成し遂げているような気になり、自分というものを錯覚する。
ぼくは思うのだけど、それを認め、信じるということは、自分の力だけを信じて何事に挑戦するより、じつはとても勇気や自信がいることなのじゃないだろうか。
それは人を信じることであり、どんな人にもある埋もれた力を信じることであり、多くの人がかなえれないと諦めている理想を捨てないことであり、すべてを生かそうとすることだ。そして、そのためには、何より、そう考えている自分を信じる勇気がいる。
人事を尽くして天命を待つという言葉があるけれど、人事を尽くすという言葉の中には、そうした自分の回りにあるすべての力を信じ、理想を捨てず、自分にはできない力があることを知り、足りないところを補ってもうらために力を尽くすことをいっているのかもしれない。
世界に、この国に、顕著にある対立や分断。そのおおもとにあるのは、自分の力だけ、自分の正義だけを世界の、国の、社会の正義だとする傲慢さだ。正義をひとつにすることで、押しのけられる人や傷つく人がいることを顧みない傲慢さだ。
ぼくもふとしたときに、それをしてしまう。そして、ああまた、自分を勘違いしたなと恥ずかしくなる。
自らがやらなくていけないことは、もちろんある。だが、外聞や見栄や体裁を捨てれば、自らやらなくてはいけないことの多くが、身をゆだねることで果たせるものだと気づくこともできる。
自らがやらなくていけないことは、もちろんある。だが、外聞や見栄や体裁を捨てれば、自らやらなくてはいけないことの多くが、身をゆだねることで果たせるものだと気づくこともできる。
自分を信じるのは覚悟がいる。身をゆだねるのは、その覚悟があるからだ。