言い訳はするな
男なら、言い訳はするな。
そんなセリフはつとに耳にしなくなった…そう思うのはぼくだけだろうか。
男女差は関係ない。だから、男なら…は、余計かもしれないが、子どもの頃に、親や周囲の大人たち、あるいは部活の先輩などから、そう言われることは当たり前にあったような気がする。
自分を振り返っても、叱っている側だって、言い訳や言い逃れをしたことはあるはずだと思うけれど、そうしないことが人として立派な生き方なのだという教育はしなくてはいけない…。かつては、社会全体がそう意識していたように思う。
逆にいえば、意識しておかなくてはいけないほど、人は、とかくに、言い訳や言い逃れをするということだ。
ぼくらの社会は饒舌になった。政治も、マスコミも、それを眺めている視聴者も、だれかれなく、饒舌になった。
ぼくらの社会は饒舌になった。政治も、マスコミも、それを眺めている視聴者も、だれかれなく、饒舌になった。
だが、饒舌なだけで、言葉の重みはなくなった。理論や理念、信念や矜持といったものがなくなっているからだ。
舌が回るだけで、言葉はなくなっている。視聴率や購買率をあげるために、大衆の心情や人情に訴える。記者クラブのなあなあ主義で、たいして取材もせず、政府や政権からの情報を垂れ流す。
好感度だけの頭脳のないタレントキャスターやタレント評論家が饒舌に仕切る昼のワイドショーは、その際たるものになっている。
饒舌さは、かつて三流週刊誌のようだと侮蔑されたものだが、いまやテレビや新聞よりも週刊誌やタブロイド紙の方が丹念で、取材もち密で、まともなときがあるくらいだ。
社会が饒舌になった分、閣僚や政治家の不適切、不用意な発言やごまかし、権力操作があからさまになっても、だれも責任をとらなくてよくなった。
アメリカ大好きなこの国は、フェイク情報を含め、不適切、不用意発言のトランプ政権にならい、少し前なら大問題になった失策も、スルーしていく。事大主義のトランプ政権同様、やたら、事を大きくして、失策や失政をごまかす。閣僚や官僚が責任をとらないのは当たり前だ。
だが、それは政権だけのことではない。政治そのものが、国民そのものが言い訳、言い逃れ大好きの国民に成り果てているということだ。
利権主義、拝金主義のエセ保守がいうそれほど、日本の美からほど遠いものはない。
いまこの国は、あるときはトランプに乗っかり、あるときはプーチンに乗っかり、事があったときには、だれもがだれかのせいにできるよう言い訳づくりをし、最終的に自国の責任をだれもとらず、後世から批判される時代の幕開けを、恥もなく、再びしようとしている。
言い訳するくらいなら、やるな! そういわれたのは、それが人として、恥となることだからだ。言い訳せずいることで、誤解も非難もされるなら、甘んじて受けよ。自らに恥じることなければ、泰然としてそうできるはずだからだ。