一線
ぼくらには、境界線がある。
他者や異性との境界線もあれば、組織と組織、集団と集団、帰属するものと帰属しないものという集合としての境界線もあるだろう。
地域と他の地域、国と他の国、宗教や言葉、生活習慣、食や文化の違いによる境界線もぼくらは持っている。
あるいは、これをしてはいけないという倫理や道徳、法の境界線もあれば、これにふれては危険という生命や身体の安全を意図した境界線もある。
もっといえば、快楽や享楽、欲情、怠惰や倦怠といった危うさを避けるために設けた境界線もあるし、衝動的な行為、欲望を抑えるためにつくった境界線もあるだろう。
境界線を設けることで、ぼくらは、ぼくらの日常の安全を図る。だが、境界線を越えなければ、人間の真実や社会や世界の現実も、解決しなくてはいけない課題も見えてこない。
境界線を設けることで、ぼくらは、ぼくらの日常の安全を図る。だが、境界線を越えなければ、人間の真実や社会や世界の現実も、解決しなくてはいけない課題も見えてこない。
だから、ぼくらは、境界線を設けながら、境界線の向こうにあるものを否定しながら、同時に、境界線を越えることへの願望も捨てることができない。
だが、ぼくらは知っている。そこを越えるとき、多くのリスクも承知しなくてはいけなことを。境界線を設けることでえていた安全や平穏が壊され、日常が豹変し、場合によって、狂気がぼくらを支配することも。
境界線の向こうはおそろしい。危うい。不安だ。こわい。それが境界線を越えるときの、境界線に挑むときに一番大事な感情だとぼくは思う。未知へ足を踏み出すとき、その一瞬で、すべてを失うかもしれない。その怯えを忘れてはいけないと思う。
それが、境界線を越えるか、越えないかを判断するときの基本的な作法なのだ。なぜなら、境界線を越えたとき、怯えが狂気に変わるスイッチにもなりえるからだ。それを抑止できるのは、自分の怯えや恐れに素直であることだとぼくは思う。危うさを避ける知恵もそこにある。
それが、境界線を越えるか、越えないかを判断するときの基本的な作法なのだ。なぜなら、境界線を越えたとき、怯えが狂気に変わるスイッチにもなりえるからだ。それを抑止できるのは、自分の怯えや恐れに素直であることだとぼくは思う。危うさを避ける知恵もそこにある。
国会で、南スーダンでの自衛隊の駆けつけ警護の危険について質疑がされている。驚くのは、安保法を強行採決した自民党側が、とりわけ、かなり無知を露呈している防衛大臣と張本人の安倍首相が、南スーダンの「戦闘」を「衝突」といいつくろっていることだ。
とてもいまの防衛大臣が南スーダンの実状を知っているとは思えないが、安保法によって一線を越えるときになって、現状をあいまいに分析し、現状のリスク分析より、根拠もなく、十分な訓練をすることで危険度の増大はないと言い切る。
そこには、自分たちが踏み出そうとする境界線への恐れも、怯えもない。問題なのは、実状理解の欠如以上に、そのことだ。こういう人たちが一番危うい。
でありながら、恐れや怯えを持つことをいけないことのようにとらえている。こうした人たちほど、境界線を越えたとき、リスクが現実になったとき、錯乱し、冷静に善後策を打つことも、終息へ導く視点を持てない。場合によって、錯乱が狂気へ変わる。
同じ境界線を越えるなら、戦闘や戦争への境界線ではなく、戦闘や戦争を回避するための境界線を越える努力をしたらどうだろう。
同じ境界線を越えるなら、戦闘や戦争への境界線ではなく、戦闘や戦争を回避するための境界線を越える努力をしたらどうだろう。
赤子のように無力な、殴り合いの喧嘩もしたことのない、お嬢ちゃま、お坊ちゃまくんのような人間が、虐殺、レイプ、略奪が日常にあり、国連平和維持軍でさえさじを投げ、撤退を余儀なくされる民族間紛争に武力で関与できる力などありはしない。
どうせ越える一線なら、いままで生きてきた自分たちの生き方を変える、いままでに越えていなくてはいけなかった、自分の一線を越えることだ。そうすれば、戦闘に自衛隊員を送る前にやらなければいけない、政治家としての使命に気づける。
どうせ越える一線なら、いままで生きてきた自分たちの生き方を変える、いままでに越えていなくてはいけなかった、自分の一線を越えることだ。そうすれば、戦闘に自衛隊員を送る前にやらなければいけない、政治家としての使命に気づける。
政治家がやることは、自衛隊員を含め、国民すべてのいのちを守ること。それが第一義なのを忘れてはならない。税金もらって、通常のサラリーマン以上の生活保障と特権や利権をえて食べてる人間が最低やらなくてはいけないことだ。