秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

おすまし顔のジャックと豆の木

ルーティーンという言葉を最初にぼくらに意識させたのは、たぶん、イチローだ。バッターボックスに立ったときの、あのお決まりの所作だけではない。

アスリートとしての日常を維持し、継続するために、毎日たゆまず、人知れず積み重ねる自分に課したトレーニング。その大切さをいまも現役でぼくらに教えている。

五郎丸のお決まりの所作も、それだけが彼のルーティーンではなく、あるときから自分に課したラガーマンとして一流であるためのすべてがそうなのだ。

イチローや五郎丸のようなアスリートに限らず、アートでも、ビジネスでも、仕事のできる人、果たせる人や集団には、そうした志と志を維持し、形にするための決まり事、決め事がある。流儀といってもいい。

それは、ひるがえっていえば、ある水準の日常を維持する、繰り返す、積み重ねることの難しさをいっているんだとぼくは思うよ。

日常ほど、こわいものはない…。そう、ぼくは思うからさ。

わずかばりかの保身やちょっとした油断、慢心…。人が日常の怖さを忘れたとき、日常は、いとも簡単に、あるべき日常の姿を失う。失うばかりか、あらゆるものの基盤が消失する。

日常を維持している土台そのものの揺らぎは、日常の姿を歪なものに変え、歪で醜くなった日常を日常としてしまう。その歪で醜くなった日常は、人や集団、地域、社会、世界の歪みや醜さに拡大し、それがルーティーンにされていく。

そこでは、人として、集団としての尊厳や矜持、流儀、作法といったものは言葉だけ、体裁だけのものとなり、悪意が善良の美しい顔をして、そこに揺らぎなく屹立しているだけだ。

日常にはびこった腐った根やずっと以前からそこにあったような顔をして屹立しているまやかしは、それがまやかしだとわかっても、早々に、根絶やしにすることは難しい。わかるだろう。日常の時間と空間の中に、日常の顔をして、絡みつくようにおすまし顔で、そこにあるからさ。

東京オリンピック豊洲新市場、防衛省予算増額、アメリカアピールの違法な自衛隊ヘリ使用…金が絡む日常にジャックと豆の木に出てくるような巨木が太い根と太い幹、枝を絡ませている。