秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

セブンティーン

突然、目の前に、広く大きく、視野が拓ける瞬間を経験したことはないだろうか。

 

世界が一瞬にして変わったと実感した瞬間だ。そして、いままで自分が抱いていた世界観がいかに矮小で卑近で歪なものだったかに気づく瞬間だ。倫理や道徳を越え、自由で、知性と創造性に富んだ世界があったことへの感動だ。

 

たとえで言えば、ヘレン・ケラーが井戸の水の感触で、Waterという言葉にたどり着いた瞬間のような世界の広がり。それは知の覚醒、脳の覚醒といってもいいだろうし、世界観の大転換といってもいいかもしれない。

ぼくは、それを15歳~16歳の間に体験し、17歳のときには自分の生きる理念の土台とした。大げさではなく、ぼくはあのときこういう生き方をしよう、こういう世界で生きようと考えた延長にいまも時間を紡いでいる。

 

覚醒を促したのは、アメリカの公民権運動であり、ベトナム反戦運動であり、沖縄返還闘争だった。文化では、アメリカンニューシネマや第二次アイビーブーム、ニューミュージックの登場だった。

それは行動として、フォークソング研究会の創設、演劇部の活動、学内での生徒の自治権獲得の運動、Peace&Loveをテーマにした文化祭の実行委員長、国際反戦デーのデモへとつながった。

 

警察官家庭だったこともあって、ぼくはそれまで、自民党に代表されるこてこての保守派で、ああだこうだと議論をふっけかける反対派、左派や労働組合は社会を乱す面倒な連中としか考えていなかった。いまは違う意味で、左派や労働組合には厳しい目を向けているが…。

 

国のため、親、地域のために一命をかけることをよしとする、戦前戦中の愛国心教育とこれに殉じた戦死者や戦禍に倒れた人々を美化し、その背景にある理不尽で悲惨な現実に目を向けることもなかった。児童会役員や生徒会役員をやり、剣道部。当然のように、教師や学校の校則を絶対のものとし、半ば強引に生徒たちを絶対なものへ誘導さえしていた。

 

だが、中学の後半から教師や学校、剣道指導者や親への信頼が次々に裏切られる現実に遭遇した。それと同時に葛藤が生まれた。そんなはずはないという、信じていたものへの執着と、しかし、おかしいという疑念の狭間で1年近く悶々とした。

 

それまで絶対なものと信じていた世界が揺らぐと人は不安になる。これが正しいと思い込んでいた世界に疑念や疑問を抱くと、人は苦しくなる。ぼくにとって、自死という選択は当時、遠い選択ではなかった。


いまの若い人や大人たちでも勘違いしているが、日常における生きづらさや息苦しさの基本にあるのは、まちがいだらけの現実をそれがまちがいだと認めずに、必死に受け入れようとする従順さ=隷従やそうしなければという硬直した思考が生み出すものだ。

三島由紀夫の名著『不道徳教育講座』ではないが、世の中や人に合わせなければとか、すでに決まったものは守るしかないとか、与えられた仕事や責務は意に添わなくても真っ当しなくてはとか…。常識的にはとか、道徳上とか、自分を縛り付けている考え方を解放することでしか、疑念や疑問、息苦しさや生きづらさを越える、新たな道は出現しない。

それは単に個人の覚醒という意味において大事なのではなく、地域や社会全体のパワー、もっといえば国力を支えるエンジンとしても大事なのだ。

価値観の転換とそれによる制度やシステム、組織の変革なくして、新産業も未来を拓く技術革新も生まれない。それには、それまで当然としていた決まり事や約束事を一から疑うことしかないのだ。

この国は、バブル経済以後の低成長期から、一ミリも制度やシステムを変えて来ていない。GDPの低下にみられる国力の低下は、覚醒のない過去30年の硬直した思考停止社会が生み出したものだ。

その元凶にあるものが安倍晋三に象徴される戦前回帰のコンサバ、ネオコンという名の私欲を貪るエセ右派の台頭が生んでいることは、だれもが承知している。

ただ、かつてのぼくが、世界観の転換に戸惑ったように、明らかにおかしいと気づきながら、それを認めることができない。おかしくても信じる、支持するという、明かな矛盾を自分の中で消化してしまうのだ。

ぼくの時代と違い、いまは新聞もテレビも、すべてのマスコミが、学校教育が新しい世界観へ押し出すのではなく、その消化作用に手を貸してくれる。

大江健三郎の小説に、社会党党首浅沼稲次郎刺殺事件をもとにした『セブンティーン』という作品がある。自己存在の証明を性的な男らしさに求め、右翼になろうとしてなりきれず、そうあろうとして事件に及んだ青年の孤独な葛藤を描き、右翼青年の話ながら、右翼よりも左派、とくにアナーキスト新左翼の学生たちに支持された。

17歳。その時間から受け入れらない、寄る辺ない自分の存在に気づき、憎悪を何かにぶつけるために生きるか、今まで信じていた世界の虚像を駆逐し、広く大きく、自由な世界観を獲得するか。

それによって、社会とのかかわり方や人と接する上でのふるまいが変わっていく。だが、その差は人々が想像するほど、実は、遠くにはない。

山上の犯行動機は、私怨だが、そのふるまいの結果論として、彼も意図せず、この国の醜悪で人々があえて消化してしまおうとしている歪な社会のリアルを露呈してみせた。

いまのこの爛れた国には、山上のように、どっちつかずのセブンティーンが増産されてつづけている。