秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

地域力の根本

人としての矜持や男としての潔さ、女としての温かさといったもの。それは、家庭を軸として、地域や社会が育み、つくりだすものだ。
 
いま都市や地方に限らず、若者たちが集まる街や場にいくと、あるいは、電車やバス、歩道、駅、映画館や劇場、ライブハウスといった公共性を求められる場で、彼らにそれが見られない…というのは、家庭を軸として、地域や社会の人を育む環境が失われていることと無縁ではない。
 
ひるがえって、いま刑法犯の多くは少年ではなく、60歳以上の高齢者、団塊世代及びその前後が中心世代を担っている。

ひとつには、生活苦から犯罪に向う者がこの世代に多いということもあるが、いわゆる常識と非常識の区分が緩いのは、「戦後民主主義教育」を受けてきたこの世代だ。
 
簡単にいえば、数が多いために、自分の都合や自分の言い分が優先するという、競争原理を生きた団塊の特徴そのままを生きている。
 
単に世代論でくくれる話ではないが、少なくとも、この世代がつくった現在の親(いちご世代)の子どもたちが、公共性がないと人々から眉をひそめられるようなことをやっている。

私たちの国や地域は、戦前から都市志向だったが、急速な経済成長を生んだ高度成長期に、極端な都市神話が国中を席巻した。当然ながら、それは豊かな国アメリカへの憧憬と無縁ではない。
その過程において、地方、地域は次々に地方、地域人自らによって捨てられ、残されたそれらは、都市の犠牲とされてきた。結果、地域から祭りや伝統芸能、恒例行事といわれるものが失われた。失われないまでも、小規模になり、その本質や歴史、地域の基盤となっている伝統といったものを希薄にしてきた。

私は、福島という地域の回復への取り組みの最初に、イベントを開催した。そのとき、キーにしていたことがある。それは、地域の踊りだ。いわきのじゃんがら念仏踊り、地元港区の赤坂踊り、あるいはフラ。そして、会津と縁の深い、郡上おどり…。
 
なぜか。それは地域の踊りは地域そのものだからだ。演劇を本業としている私は、能楽や歌舞伎の源流からそれを知っている。あるいは剣道という武道を通じて知っている。身体所作にしみこむ、伝統や文化。それが演劇の原点であり、かつ、地域を身体化する…ということにつながる。

それは踊りに限らない。太鼓も、民謡も、祭事もそうなのだ。地域の踊り、太鼓、唄、祭事のしきたりといったものは、身体性の継承だ。そのためには、地域において、先行世代から次の世代、そして、また次の世代と口伝が必要になる。
 
いわば、それが地域を学ぶことであり、地域を知ることであり、そして、地域への誇りを持つことになる。そして、それが、自分がこの街において、どうふるまわなければならないか、この街という公共をどう生きねばならないかを教えてきた。
 
その基本の上に、人は人としての矜持や男としてのふるまい、女としてのふるまいを学んだのだ。
 
地域力の回復というとすぐに産業の再建や商品の開発、地域観光の充実といった都市的なことばかりに目がいく。
 
そうではない。地域力の回復の根本になくてはいけないのは、文化だ。希薄になった地域性と身体性の回復だ。それなくして、本当の意味で産業の再建も、地域ならではの商品も、地域らしい観光の姿も見えてはこない。